毛を抜く ②?

……すこし落ち着こう。昨日書いたのは夜遅くだったから、どうやら大風呂敷を広げすぎたようだ。鼻毛を抜くのが人類への冒涜だなんて、上滑りもいいところだ。

 

さて。気を取り直して、話を進めていこう。

 

このご時世、くしゃみとか鼻水とかいうものへの風当たりはとてつもなく強い。

 

だが特に、くしゃみとは厄介なものだ。花粉症のときの症状を思い出していただければわかってもらえるのだが(日本に花粉症をわずらわぬ大人は存在しないから、これは全員に間違いなく伝わる比喩である)、そういう生理現象は、前触れもなく突然訪れる。それが電車の中だろうが授業中の教室だろうが映画館だろうが、一度くしゃみの気が催せば、もはやだれにも止めることはできない。くしゃみとは時限爆弾に近い――そして爆発までのカウントダウンは、わたしたちの手に渡った時点ですでに二秒を切っているから、どうにも対処のしようがない。

 

であるからして。わたしは最大限の抵抗として、爆発寸前の鼻腔をマスクの上からさらに押さえつける。顔のでっぱりに合わせてぴったりと曲げられた薄い板が、さらなる密着度をもって鼻の頭を締め付ける。

 

そして時は来て……しばらくのあいだ、わたしは周囲の、もの言いたげな軽蔑の目にさらされるわけである。

 

昨日の話に照らし合わせれば、それはわたしの、人類史を冒涜する態度への非難の目だ。もちろん昨日の話は誇張に次ぐ誇張にまみれているから、実際のところわたしは、某ウイルスの感染者ではないかという疑いの目を向けられているわけである。ほとんど家から出ない、したがって感染リスクも低いわたしは当然、その無言の非難を無根として否定したい。しかしながら、「前日に鼻毛を抜きすぎました」なんて事実を語れば、余計におかしな人だと思われるだけだから、そんなことはできない。

 

はあ。鼻毛を抜くとは、巡り巡って、社会的な愚行でもあるわけだ。

 

じゃあわたしは、どうして鼻毛を抜いてしまうのだろう?

 

答えは簡単。伸びていると、気になるからだ。

 

鼻毛は鼻の中から生えている。鼻の粘膜を保護するのが目的なのだから、それはそうだ。鼻の外から生えた毛が、鼻の穴を通って鼻腔内に侵入しているのだとしたら……気持ち悪いし、なにより、めちゃくちゃくすぐったいだろう。あまりに馬鹿げた仮定だ。

 

しかしながら、その馬鹿げた状況のちょうど反対は、現実に起こっている。すなわち鼻の中から生えた毛が、穴を通って、外気のもとへと顔を出している、ということはよくあるのだ。

 

じゃあ。抜くしかないだろう。涙腺を直接刺激するあの痛みも、慣れてしまえば心地よいものだ。だから、抜く。わたしは悪くない。悪いのは、抜かなければならない生え方をする、あのやけに力強い毛のほうだ。

 

俺は悪くない。悪くないから、くしゃみは甘んじて受け入れよう。鼻水も受け入れよう。季節外れに白く染まるゴミ箱もご愛敬だ。周囲の目を気にするのも辞め、箱ティッシュを持ち歩いて、万難を排していこう。

 

……言っていて悲しくなってきた。だから、こんなくだらないことはもう、二度と書かないことにしよう。