歴史の正しい側に立つ

歴史とは為政者によってつくられてきたものだ、という事実は、歴史を学ぶ上で最初に注意されることのひとつだろう。

 

だから歴史は割り引いて解釈せねばならない、と、初学者向けの注意は続く。為政者はありとあらゆる手段で、歴史を都合よく書き換えるからだ。自分こそが「歴史の正しい側」になる歴史以外に、為政者は興味がない。そして自分が間違っている歴史を、歴史から抹消しようと試みる。

 

現代的感覚(すなわち、アップデートされた感覚)からすれば、歴史は公平であるほうが望ましいはずだ。公平な真実こそが真実だとひとは信じているし、だからそのために、多角的に歴史を観察しようと試みる。そうできれば少なくとも、為政者に都合の悪い真実を知ることができるからだ。

 

……まあ、そんなことができるとは、必ずしも限らないのだが。だがその話には、深くは立ち入らないことにしよう。

 

話を元に戻そう。歴史は為政者によってつくられると言うが、現代にもそのテーゼはあてはまるのだろうか。

 

あてはまる地域があるということには、誰もが同意するところだろう。地球上に独裁国家の例は数知れず、自由な研究はしばしば規制される。歴史どころか、いま現在への認識すら歪められ、正確に把握することは叶わない。そういう場所はいくらでもあるし、人類の歴史上、そういう国が特段愚かだとも遅れているとも思わない。

 

だが、そうは見えない地域だってまた、ある。権力とは縁のない人間が、それでも資金を与えられてあらゆる立場から歴史を解釈している、そういう世界が存在することもまた、直視すべき歴史の一ページではあるだろう。

 

すくなくとも、建前上は。そしてその建前は、所詮建前だと一笑に付せるほどには、現実と乖離していないように見える。

 

その点をもって、わたしたちの一部は歴史の正しい側にいる。人類はようやく、権力と独立した歴史なるものへとたどり着いた。もし現代の感覚で現代を評価するのに抵抗があるなら、こう言い換えてもいいだろう。わたしたちはすくなくとも、真実が敗北を喫してきた歴史とは異なる側に住んでいる。

 

あるいは、そういう価値観こそが、現在進行形で歴史を歪めているのだろうか。

 

時代を超えて正しい価値観など存在しない、という態度で生きていれば、現代人はすこぶる傲慢に見える。現代とて歴史の一ページ、未来の中で次第に薄れゆく存在に過ぎないにも関わらず、わたしたちはわたしたち自身を、歴史の特異点だと信じ込んでいる。歴史とは野蛮な時代の物語にすぎず、現代と歴史とは、連続こそすれ本質的に異なるのだ、と。

 

それはいったい、どれくらい傲慢な態度なのだろうか。まったくの思い上がりなのか、それともある意味では、真実らしきものを含んでいるのか。

 

まったくの嘘だ、と言ってしまうのは簡単だ。「歴史の正しい側とは完全なナルシシズムの表明である」と、切って捨てれば話は終わる。だが歴史とは本質的に曖昧なものだ。すこしばかり、断言とは相性が悪い。

 

歴史は為政者によって語られてきた。それらは都合よく歪められてはいるが、同時に全くの嘘というわけでもない。歴史はつねに、真実と虚栄の中間にある。

 

だからわたしたちの傲慢さのなかにも、おそらく真実はあるはずだ。どれが真実で、どれが虚栄なのかは……願わくば、おそらく歴史が判断してくれるだろう。