振り返りの時期

驚くべきことに、この日記をはじめてからもう一年以上が経っているらしい。

 

一年、ってのはなかなかの期間だ。ひとは一年にひとつ、歳を取る。例外はない。つまりこの一年の間に、世界中の全員が一度は誕生日を迎えたってことだ。ハッピーなことじゃないか。

 

まあ、この話にはひとつ抜け漏れがある。この一年の間に生まれた赤ん坊は、厳密な意味では、歳を取っていない。生まれた瞬間にひとはゼロ歳になるわけだけれど、じゃあ生まれる前はマイナス一歳だったのかといえば、誰もそんな言い方はしない。まあでも、生まれるってのはとびきりハッピーなことだ。だからやっぱりみんな、この一年で少なくともひとつのハッピーを経験したことになる。

 

……もしかするときみはいま、気分を害したかもしれないね。とりわけきみが反出生主義者とか、あるいは反誕生日主義者とかだったら。まあでも、一応世間的には、そういうのはハッピーだってことになってるんだ。うまく話を合わせておいてくれ。気にくわないかもしれないけど。

 

話を戻そう。人間以外に目を向ければ、影響はもっと大きいかもしれない。雑草の種は芽吹いて花を咲かせ、一年草ならそれで枯れる。庭が綺麗になって、お父さんは喜ぶ。でも奴らはしたたかなもので、枯れる前に新しい種を作って、庭中にまき散らしているんだ。翌年になるとまた種は芽吹く……ここまでが、一年ってものだ。

 

一年っていうのはなんだろう。これには理屈の通った基準があって、地球が太陽の周りを一周するまでの時間だ。厳密には、追加でいくらかややこしい問題があるけれど、それもうるう年というシステムが解決してくれる。

 

ただまあ、人間社会にとっては、天文学的な説明がすべてじゃない。季節の移り変わりが人間の心に与える影響を否定するつもりはない――でも、一年っていう区切りの意味の大きさは、気温と湿度だけじゃ説明できない。一年が経ったってことは、ひとがひと回り大きくなったってことだ。たとえこの一年、きみが何もしていなかったとしてもね。

 

きみは議論の欠陥を見抜くのが上手だから、すぐに気づいたことだろう。別に一年じゃなくてもいいだろう、ってね。百日でも三一四日でもそれプラス〇・一五九二日でも、ひとが大きくなっていることには変わりない。だから一区切りが、一年である意味なんてないのかもしれない。

 

でも、残念ながらここにも世間が顔を出す。世間では、一年というのはキリのいい区切りだってことになってるんだ。何故かは聞かないでほしい。でもたぶん、そんなに大事な問題でもない。もしきみがそれでも一年というものを否定したいのであれば、ぜひぴったり円周率の百倍日ごとに、きみ自身の人生を振り返ってみて欲しい。きっとすぐに、忘れると思うけどね。

 

え? 何を言いたいんだ、って? つまりそろそろ、この日記全体を、一度しっかり振り返ってみてもいい時期なんじゃないか、ってことだ。