昨日付けでわたしは、博士課程二年生という身分になったようだ。
当然、実感はわかない。実感とはすべからく、変わりたての頃には湧かないものだからだ。自分が博士二年生であることをわたしは知識として知っているが、例えば「二年生の人は手を挙げてください」と言われて、咄嗟に挙げられる気はしない。
もっとも、実感がなかったところで特に問題もない。小学一年生や高校三年生であることに比べて、博士課程の二年生であることの意味合いは希薄だ。博士一年と博士二年のいったい何が違うのか。そう、大した違いはない。
とはいえ二年目とはまあ、なかなかに扱いの難しいものである。二年目は最初の年ではないから、出会いとか不安とかとは無縁だ。気づかぬうちに新年度は始まり、そして書類の入力以外の理由では、気づく必要もない。
三月三十一日以前と四月一日以降で、人生はなにひとつ変わらない。年度跨ぎはシームレスで、ケアレスでミーニングレスだ。
もしこの生活が今年で終わりなら、また別の感慨がありうるかもしれない。最後から二番目の年から最後の年への移り変わりは同じくシームレスだが、これが最後だという危機感がある。これから経験する一年のすべてを、わたしは二度と経験しえない。なぜなら次の年には、まったく別の環境にいるのだから。
……だが博士課程は三年。今年しそびれた何かは、来年まで待てばいい。
二年目はシームレスに始まり、シームレスに終わる。はじまりの期待感も、終わりの焦燥感もない。最初から最後まで、ずっと宙ぶらりんの時間。この一年間を切り取って、最初と最後を繋ぎ合わせれば、永遠にループする切れ目ない人生の出来上がりだ。
あるいは。二年目を切り取って捨て、一年目と三年目を並べれば、まったく自然なダイジェスト版の人生が出来上がるのではないか。
そう考えると、よくわからなくなる。この一年が存在する、その理由が。なくても変わらない一年。それをわたしは、いまから生きる。三月三十一日が四月の一日になる瞬間、カレンダーの年が変わらないことを保証するだけの一年を、だ。
気楽なものだ。何もしないなら、しないでいい。何らかの過ちを犯してたとしても、切り取って編集すれば、なかったことにできる。
もっとも。
人生を時間で区切るとすれば、三年という期間はむしろ短い部類だ。始まりでも終わりでもない年は一年だけしかない、なくてもいい年は三分の一しかない。五年の期間なら五分の三、十年なら八割が、今年のような年なのだ。
そう考えれば今年はある意味、人生でもっともありふれた年だ。人生それ自体、と呼んでもいいだろう。今年感じること、それはそのまま、今後の人生のほとんどで感じていること。
ありふれた年だから、本気で生きようとは思わない。だからこそ今年は、人生とはどういうものなのかを知る年なのかもしれない。