瓦礫の山を左右に眺めながら、双子を含む一行は進んだ。
核戦争から三十年。ここにいる人のうち、実際に戦争を体験したのは教授だけだ。学生にとっては、生まれる前の悲劇。東京という巨大都市があり、それが消え去った、らしい。あくまで歴史の知識として、カケルはそう認識している。
カケルの中で、東京とはファンタジーの都市だ。ある時代には、将軍の御膝元。しばらく後には、皇室なるもののあった場所。そして、混雑と異常気象に満ちた、世界最大の大都会。それぞれが全然別の時代の出来事だ、と頭では分かってはいる。だがカケルの頭の中では、時系列は鼻をかんだティッシュのようにぐちゃぐちゃだ。
大都会東京に、侍はいない。知ってはいるが、どうにも実感がわかない。
だが世の中は、東京を本当に知っている。いまの四十歳以上にとって、東京とは現実に存在した都市だ。大都会だったころの東京を彼らは訪れたことがあって、そこでご飯を食べたり、映画を見たりしていたのだ。
三十年前の東京に、侍は歩いていなかった。当時を生きていた彼らは、それを自分自身の目で見て知っている。
さらに悪いことに、世界は、東京を知っているのを前提に回っている。
ニュース番組や、ドラマの名シーン。かつて東京にあったものを誰かが取り上げるとき、その表現は、失われた大都市に対する郷愁に満ち満ちている。まるで東京を懐かしまない人には、心がないかのように。
だがカケルたちには、にぎやかだった頃の東京の記憶はない。懐かしむべき街は、物心ついたころにはすでに廃墟だったのだ。
東京を愛することは、義務だ。だが愛そうとすれば、嘘になってしまう。
彼は思う。それはちょっと、不公平じゃないだろうか。
だから彼は、目の前の巨大な構築物を見てこう思った。これで、ぼくも東京を知ることができた。これでようやく、社会の一員になれたんだ、と。
鋼鉄製の千羽鶴。十年ほど前にこの地に建てられることになったこのモニュメントは、単なる祈り以上の意味を持っていた。理屈は分からないが、この碑を建てることによって、あたり一帯の放射線量を下げることができるらしいのだ。
最初にこれを作ったのは、紙原さんという鍛冶職人だ。
彼がどこまで知っていたのかは定かではない。本人の話では、彼は純粋に祈りの意味でこれを作ったらしい。この特定の形状に物理的な効能があることについてはまったく知らなかった、というのが、紙原さん本人の説明だ。
だがこの話にはおかしな点がある。一番の謎は、紙原さんを知る人が、彼はそんな人ではないとこぞって証言していることだ。神だとか祈りだとか、そういうことを彼は信じないばかりか、むしろ馬鹿にしていたらしい。
そんな彼が、どういう風の吹きまわしでこれを作ろうと思ったのか。それは彼以外、誰も知らない。
まあだが、後から考えてみれば、理屈が通っている気もする。
千羽鶴を作るのは大変だ。小学生の頃にやらされたから、よく知っている。それでも千羽鶴は、古来より、誰かを応援したり慰めたりするために使われていた。
なぜそんなに大変な思いをして、千羽鶴なんて作らなければならなかったのか。もっと手っ取り早い祈り方なんて、いくらでもあるのに。
それは、おそらく。
きっと、実際に効果があったからだろう。千羽鶴の横にいた誰かが結果を残した。快復を祈られた誰かの病気が治った。そういう正のフィードバックの積み重ねで、千羽鶴は慣習になっていった。
科学はこの現象を説明できない。でも、科学が説明できないことなんていくらでもある。
すくなくとも昔の風習には、そういう知恵が詰まっているものだ。