ねたぎれ。(おひさしぶり)

日記をはじめてから、そろそろ一年である。我ながら、よく続いているものだ。

 

これくらい続けると勝手が分かってきて、日記は以前ほど大変な作業ではなくなってきた。分量に困ることが少なくなったのだ。連想の幅も広がって、一日分にとても満たないと思っていたような題材でも、うまく膨らませてそれなりの文章にできるようになってきた。前提の説明と称した、余計な前置きで尺を稼ぐのではなく。

 

執筆作業そのものも上達した気がする。よい文章は一文が短い、というのは前から分かっていたことだ。だが、どうすれば短くなるのかまでは分かっていなかった。長くなった文は、接続詞と句点でぶつ切りにするだけではダメなのだ。わかりにくさはそのままに、不自然になってしまう。

 

その問題の解決法も、最近分かってきた気がする。長い文というのは、論理構造が複雑な文だ。論理をすべて説明しようとするから、文章は読みにくくなる。それなら逆に、論理の大部分を文脈に委ねて、覆い隠してしまえばいい。

 

接続詞なんて書かなくても、文脈が代わりをしてくれる。だから、とか、しかし、とか。パラグラフ・ライティングの弊害。標識なんてなくても、だいたい読めばわかるのだ。

 

昔のわたしは下手くそだった。今は上手とは言わないが、だいぶマシになった。過去の文章と見比べれば、きっと一目で違いが分かるだろう。まあ、わざわざ振り返ったりはしないのだが。恥ずかしいから。

 

というわけで、比較的すらすらと書いている今日この頃である。日記はかつてほどの負担ではない。だがひとつだけ(強調したいときには接続詞を使うべきだ)、どうにもならなさそうな問題がある。

 

まあ、久々のアレだ。熱心な読者ならもうお気づきだろう。

 

題材が、思いつかないということだ。

 

書くこと自体に、調子の良し悪しはそんなにない。執筆はテクニックだから、昨日までできていたことが突然できなくなったりはしない。

 

だが題材は話が違う。調子のいい時期には、いくらでも浮かんでくる。一日に三つも四つも思いついてしまうから、覚えているのも一苦労だ。忘れないためにとったメモの上で、永遠に順番を待つネタたち。そのうちのいくつが、実際に文章になるのだろう? それとも、執筆のほうが追いつかなくなって、闇に葬り去られるのだろうか?

 

もちろん、そんな舐めたことを言っていられるのは、うまくいっているときだけだ。

 

調子の悪い時期。いくら唸っても題材は出てこない。メモを見返して、葬り去られたネタがないか何度もチェックするが、出てくるのはイタいものばかり。連載物にするという技を最近覚えたが、それも根本的解決にはならない。ひとつの題材で五日書いたところで、次を思いつく保証はないのだ。

 

それでも、書かなければならない。書くと決めた以上は。

 

というわけで、今日は久々に裏技に手を出してしまった。ネタがないということについて書くこと。初期から何度かやっていて、そのたびに不甲斐なく思っているが、またやってしまった。申し訳ない気持ちでいっぱいだ。

 

二度としないとは言えません。でも、すみませんでした。