Re: 例のサイトの話(終)

例のサイトの話をするのは、今日で最後にしよう。

 

投稿は増え続けている。ほとんどの投稿は残念ながら、大して面白くはない。おそらくはすぐに更新履歴の一覧からも消えて、二度と顧みられることはないだろう。

 

こうなると、初期の投稿の偉大さが身に沁みる。おそらくいくつかは管理人の手による、初期の事例。このサイトが広まった理由。その面白さの源泉は、優秀な筆者たちの、飾らない異常性にある。

 

淡々と語られる異常の面白さについては、すでに一昨日触れたところだ。ひとは筆者の行動を、明らかに異常だと感じる。だが同時に、自分のことのようにも感じるのだ。同じ状況に置かれれば、やってしまうかもしれないこと。他人のものでなければ、異常だと気づけないかもしれない行動。ある意味で、この笑いはホラーだ。失敗に気づくのは、取り返しがつかなくなってしまったあとかもしれない。

 

そしてほとんどの投稿には、そんな生々しさが不足している。ゆえに、面白くない。

 

例のサイトが、何かを学習するためのものではないことは一昨日述べた通りだ。異常行動のリストを通じて正常な行動とはなにかを学習する、というトップページの名目は、割り切った面白さを演出するための舞台装置に過ぎない。場にそぐわない行動という、微妙な感性の問題。異常性と理屈の不協和音。Wiki という無機的な体裁が、感性と自己合理性とのコントラストを、絶妙なバランスで引き立てる。

 

しかしながら、現在。皮肉なことに、例のサイトから、わたしたちはひとつのパターンを学ぶことができる。管理人が想定していなかっただろうパターンを。

 

異常性とは別の、より分かりやすいパターン。そう、つまらない投稿のパターンである。

 

パターンはいくつかある。一例を挙げよう。

 

まずひとつ、過度に一般的なもの。

 

一般化は人間を学習させるいとなみだ。正常性を学習するという名目のこのサイトには、一見して適しているようにも見える。だが、このサイトはあくまで事例集だ。教訓集ではない。

 

このサイトの面白さは教訓そのものではない。事例を眺めることで、自分なりの教訓を導くプロセスだ。最初から一般化が提示されてしまえば、解釈の楽しみを奪われてしまう。自分を投影して恥じ入り、感じ入ることもできなくなる。

 

加えて、社会通念に従属的なもの。

 

困る人がいるから。法に触れるから。より大きななにかをもとにした理屈。なにかを禁止するために、よく挙げられる理由だ。

 

だが。

 

困る人は、本当にいるのだろうか? 法に触れることが、そんなに悪いことなのだろうか?

 

もちろん、おおかたの場合、禁止する側が正義だ。だが正しさは、ここでは問題にはならない。重要なのは、そういう社会通念的な理由が、曖昧な理屈付けに過ぎないということだ。

 

なにか悪いことをした場合、ひとはどうそれを知るのか。目の前の人間が泣き喚いていれば、悪いことだったのだと理解できる。例のサイトが集めているのは、きっとそういう事例だ。

 

だが。「悪いことですよ」と、ただ言われるだけの行動の場合。その悪さは漠然として、まったく生々しさが足りない。誰が困るのか釈然としない。ましてや、他人の行動の場合。読み手が受け取るのは、笑いと共に心臓に突き刺さる、実感のちいさな棘ではない。筆者がどうしてか反省しているという、他人事の事実だけだ。

 

目に見える誰かの気分を害すること。他人の行動に求められる笑いとは、そういう趣味の悪い迷惑話なのだ。

 

さて、メインどころのパターンはそんな感じだ。ほかにもいくつかあるが、それは書かないことにしよう。もしあなたが物好きで、つまらない事例を読み漁るだけの気力と時間があるなら、ぜひ試してみて欲しい。

 

きっと、あなただけの教訓が見つかるはずだ。