死を願う、無を願う

死ね。

 

痩せ型の男が啖呵を切る。服と身体のあいだの寒気を絞り出すような、不自然に甲高い声で。

 

つめたさそのものが沁みだしてくるような、真冬の深夜一時の路地裏。わずかな街灯が放つ弱弱しい光は、大部分が電柱に遮られて地面に届かない。わきに漏れた少しばかりの光すらも、容赦なく吹き付ける夜風にまぎれ、冷たさの中に消え去っている。

 

相手の男はやや大柄で、寒さを征服したかのように仁王立ちしている。服のすぐ下まで詰まった筋肉が、防寒着の代わりをしてくれているのだろう。セーターこそ着ているが、それでも季節にしては驚くほど薄着だ。

 

それ以外に言うことはないのかね。嘲笑うように、大柄の男は言う。

 

ふたりの間には、三メートルほどの距離。痩せた男の罵倒には実体が伴わない。ゆえに、絶妙に手の届かぬ距離の薄闇を、男の殺意は突破できない。

 

死ね。

 

一つ覚えのように、甲高い声。本質以外のすべてを飲み込む闇に、否応なくまぎれてしまう声。彼は鞄からナイフを取り出す、だが緊張と寒さで、彼の両手は震えている。

 

大柄の男は動じない。ただつまらなさそうに、ナイフの切っ先を眺めている。震えが大きくなり、痩せた両手がナイフを取り落とす。彼は背中を向けて歩き出す、去り際に軽く、右手を挙げて。また明日会おうな、そう語り掛けるように。

 

大柄な男は去り、路地裏には一人だけが残る。

 

死ねぇぇぇぇぇぇ。

 

肺の中のすべてを冷気に投げ棄ちながら、痩せ型の男は最後の罵倒を叫ぶ。懸命の罵倒、だがどうしても、声に迫力は籠らない。誰もいなくなった路地裏、無様な咆哮。それが響く場所は、彼の両耳以外にいっさい存在しない……

 

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匿名のインターネット掲示板。みずから投稿した文字列が注意書きに置き換わるのを見て、彼は皮肉に笑う。インターネットカフェの一室。平日夕方の部屋は薄暗く、だがディスプレイの光は煌々として確固だ。

 

この部屋には、すべてを支配する冷たさはない。ナイフを取り落とさせるような、寒さと緊張の無力感も。卑屈だが気楽。隷属こそ自由。温かくも寒くもない、無機質で心地よい場所。

 

そしてなによりここには、俺のことばを罵倒だと思ってくれる、愛すべき AI 様がいる。

 

死ね、が陳腐なことくらい、俺だって分かっている。あいつに響くことばではないことは。

 

つまるところ、死とはいつでも、誰にでも訪れうる結末。誰にだってかけられる、汎用の呪い。恨みなんかなくても、いくらでも言える罵倒。

 

そんなもので、俺の恨みが伝えられるわけがない。でも俺は、それしか言えなかった。

 

もっとも鋭利なナイフは真実である、そんなことばをどこかで見たような気がする。真実を突き付ければ、ひとはたちまちたじたじとなって、上下関係も主従関係もたちまちに逆転するのだと。だが今回、真実を突き付けられているのは俺のほうだ。あいつを恨んでいながら、あいつに刺さることばをなにひとつ用意できぬという真実を。

 

死ね、を AI は嫌うかもしれない。不適切だとみなすかもしれない。だがひとはそうではない。嫌われていると分かっているひとに言われたことばがそれだけならば、相手はむしろ安心するに違いないのだ。誰にだって使える、汎用的で曖昧な呪詛。それしか言えない相手は、実際には何もしてこない、究極の無能と見て間違いない。

 

分かっている。でも、思いつかない……