裏切られる愛、裏切らぬ無関心 ②

誰かを愛すること、そして裏切られること。その手の古典的な展開には必ず、愛そのものへの絶望が続く。打ちひしがれた主人公は深夜の街灯の下で、自棄になって決まったセリフを吐き捨てる。どうせ傷つくのなら、誰も愛さない方がマシだ、と。

 

裏切りの変質した現代、愛は愛ゆえに否定される。叶わなかったところで、それは悲しむに足る事件ではない。そもそもの最初から愛は否定されているのだから、愛が砕けるとはあくまで、あるべきだった場所に戻ってきただけなのだ。

 

からして現代は、センチメンタルとは無縁だ。物語の主人公のように、われわれは愛と、結果としての絶望を経験しない。にもかかわらず現代人が愛を恨むのは、愛とはつまるところ、卑劣な犯罪のひとつに過ぎないからだ。

 

ひとなど愛さぬ方がいいという結論。皮肉なことにわれわれの結論は、悲恋の中の主人公とまったく同じだ。愛を経験することと単に忌避すること、両者の間には、越えがたき溝があるにもかかわらず。あるべきだと、ひとは信じるのにもかかわらず。

 

生徒の不義理の例に戻ろう。古典的な暴力教師は愛ゆえに、高校を放逐されていなくなってしまった。代わって着任した新任の教師は、リベラルで現代的な価値観を惜しみなく発揮して、完璧に正常な結論に達する――この生徒は無視して、ほかの生徒の人生に集中しよう、と。

 

若い教師は生徒を殴らない。どんな不義理にも、動じぬふりをして受け流す。それゆえに彼は正義の教師だ。むろん彼は不義理に耐えているのではなく、単に生徒の未来に興味がない。完全に正しい態度、合理的で時代に合った態度。

 

彼こそが正義だから、彼はもちろん称賛される。余計なことをしないひと、それはひとが到達できる、至上にして理想の評価だ。世の中には唯一の正義がある。不干渉という至高の正義が。

 

愛に興味のないひとにとって、いかにも現代とは生きやすい時代だ。ひとを愛することはときとして困難だが、関わらないことなら簡単にできる。他人に興味など持たず、自分のことにだけ集中すればいいのだ。

 

愛の反対は無関心、加害の反対は不干渉。他者愛などという面倒ごとに関わらなければ、加害者の烙印を押されずに済む。愛イコール加害、すなわち悪。悪の反対は正義、すなわち不干渉は正義。

 

愛さないこと、すなわち傷つけないこと。愛されないこと、すなわち傷つかないこと。それが正義なのは単に、皆がそうしているからだ。不干渉。あまりにも強い生存戦略。誰もが使っている戦略とは、もはや戦略ではなく常識だ。もはや狡猾とすら呼ばれない、新時代的な価値観。

 

ひとはひととかかわるべきではない。愛するべきではない。もし誰かに愛されたのなら、ひとりで抱え込もうとせず、しかるべき機関に報告すべきだ。愛という罪への裁きは、いずれ法が下すであろう。

 

現代人、リベラルな価値観。誰しもが安心して過ごせる、理想の世の中。ユートピアへ向けて、われわれは日々邁進している。権利の保障された未来へと。一生のあいだ、ひとが他の誰とも接触せず、完全に個人として生きていける未来へと。

 

そしてもちろんわたしも、そんな未来を希求している。