イノセンスの幻影 ①

(ひとりの男の子、だいたい五歳くらい。雲一つない青空を見上げている。飛行機の軌跡が、淡水色のカンバスに真っ白な線を刻んでいる。)

 

(男の子は飛行機雲を見たことがない。それはなにも、彼が持病で生まれてからずっと病室にこもりつづけていたからだとか、空のないディストピアで過ごしたからとか、飛行機のない過去からタイムスリップしてきたとか、そういう理由ではない。何事にも初めてはあり、彼にとってはこれが初めてだった。それだけだ。)

 

彼は言う。この真夏の公園の坂道を、そのまま転げ落ちてゆきそうなほどまんまるな声で。何を。

 

(彼のセリフ。斬新な表現だったことは記憶している。子供らしく、突飛だがやさしい。地に足の着いた、その地面にかかる体重の穏やかさを象徴することば。)

 

何を。何を。

 

「飛行機雲だね」――違う。彼は飛行機雲を知らない。

 

「飛行機が線を引いてるよ」――これも違う。彼はこの興味深い現象が、飛行機の仕業だとは知らない。それに、「線を引いてる」は子供らしい表現ではない。

 

「おそらがまっぷたつだ」――論外。空の裂け目とは典型的なファンタジーのモチーフ、すなわち大人の先入観の象徴。白線を引いただけで割れるものなどない。だから空は割れないし、割れた向こうから何かが出てくるわけでもない。だいたい、天球全体を二分するほど、飛行機雲は長く残らない。

 

「おならブーしてる」――騙されかけたが、違う。子供はおならが好き、だが子供はそう言わない。なぜなら、知らないから。飛行機雲とおならとが同じ原理だと知っているのは、水蒸気やらなんやらを知っている大人だけだから。

 

「ママ、あれなに?」――まあ、あるかもしれない。むしろだいたいはこうだろう。でも、そういうのは求めていない。子供とは……いや、子供らしさとは、もっとこう詩的で、クリエイティブで、イノセントで、まったく異なる現実の解釈で……

 

……思い出せない。想像できない。頭の中の子供は子供のことばではなく、大人の想像する子供のことばを話す。ぼくにはそのふたつが、はっきりと区別できる。

 

言語能力もセンスも、あのころとは比べ物にならないはずだ。おそらく、想像力も。

 

なのにどうして、ぼくはこどもになり切れない?

 

(あるいは、情景が普通すぎるのかもしれない。子供と飛行機雲、使い古されたモチーフ。何を言っても陳腐、だがそれなら、どんな情景ならよいのだろう? それくらいは思いつけてもいいはずじゃないか?)

 

いや、無理だ。思いつかない。ぼくは典型的なモチーフに囚われている。そこから抜け出そうにも、純粋なモチーフではなく、青空と眼下の血の池の対比だとか、そういうテクニカルな方向に進んでしまう……

 

なぜならぼくはもう、子供ではないから……

 

……