キノコの家 ③

さて、そんな登記上は建物とされているだけの原木が、築七十五年の時を経てなおなんとか新たなバイオームを定義せずに済んでいるのは、ひとえに管理人たる俺の努力の賜物だ。

 

家賃の徴収と、キノコの伐採。これがきわめて一般的な大家、すなわち俺の二大業務だ。大家が本当に現代の特権階級だと仮定して(こんな東屋に収監されて、特権階級だなんてはなはだ信じがたいが)、その特権の所以たる不労所得を獲得するためには、とにかくこれらの作業をこなさなければならない。太古の昔からそう定まっている。

 

むろん、家賃とキノコの徴収ではない。キノコには毒があったりなかったりして、毒の有無は食べてみるまで分からない。まあ、それはいいだろう。食の歴史とは無数の屍の上に成り立っている。

 

だが仮に無毒だったとしても、キノコは美味しかったりそうでなかったりする。美味しいかどうかも、やはり食べてみるまで分からない。生死などという些細な問題と違い、不味いキノコを食べさせられたとあっては人権にかかわる大問題だ。よく似た見た目でも全然違う種だったりするのがキノコというもので、そこのキノコが美味しかったからと言って、その隣のキノコの味に関しては、残念ながら何の情報も得られない。徴収したキノコを金銭に変えるためにはキノコを残しておかなければならないのに、そのキノコを知るためにはキノコを食べないといけない。何たる矛盾。よって、キノコを徴収しても仕方ない。

 

家賃とキノコの伐採でもない。伐採とは切るという意味であり、お金を切るのは、物理的にも比喩的にも望ましくない行為だ。物理的に金を切るのは貨幣損傷等取締法という法律に違反するらしい(そんな細かいことまでよく考えたものだ!)し、比喩的に切られて、つまり値切られてしまえば、俺の収入が減る。だからお金は伐採してはいけない。

 

キノコの徴収と、家賃の伐採。というわけでその二つを、俺は毎月させていただいている。

 

最近知ったのだが、どうやら、たいていのアパートではキノコの伐採は大した作業ではないらしい。知り合いによれば、それより電気やインターネットの管理のほうが大変らしいのだ。信じがたいことだが、よくよく考えてみれば、キノコ対策が大家の情報誌の表紙を飾っているのを俺は見たことがない。つまり情報誌とは嘘っぱちだ。

 

それを証拠に、情報誌の紙面には「家賃を払わない住人」ということばが載っている。これが意味するのは、家賃とは本来、住人の大多数が自発的に払いに来てくれるものだと編集者は思っているということだ。

 

むろんそんな住人には会ったことがないし、会ったとしたら何か巧妙な詐欺か何かを疑うだろう。だが想像するに、紙面上の大家のいちばんの腕の見せ所はこんな感じだ。家賃を恭しく献上する架空の従順な信者の前で、大家はこれ見よがしに万札を数える。固唾をのんで見守る下々の者へ、威厳と不遜さに満ちた低い声で、大家はひとこと言う――「確かに」。

 

まあ残念ながら、そんな時代劇じみた光景が現代に存在するわけもなく、現実は単に情報誌が嘘っぱちだ、ということだろう。

 

その通りここカサタテ荘の住人は、俺を教祖として信仰したりはしない。すなわちまだ、紙面上の人間よりは理解しうる奴らだということ。だが目の前の問題は住人が理解不能なことではなく、住人が家賃を払わないことだ。同情したって金はくれない。だから結局のところ、金銭の問題の前では、理解など役に立たない。


ましてや、キノコを伐採させてくれないという、より重要な問題の前では。