さて、そんなカサタテ荘最大の特徴が、キノコである。
何をいまさら。そう思われても、まあ無理はないのかもしれない。雨漏りとキノコは、ボロ屋敷の風物詩だから。
だが少し、取り合ってほしい。長くはかからない。
始めよう。木造建築とは何か。
これすなわち、死んで久しい木の塊だ。法隆寺も平等院も、みな平等に死んでいる。そのいくらかには歴史的価値とやらが認められ、適切に管理され、死の直後の姿を厳然と保っている。
だがもちろん、カサタテ荘はそうではない。ここの木は死後七十五年の時間を、一年たりとも碌に管理されずに過ごしてきた。ともにある人間は多かったが、その中にまともな人間はいなかった。
管理されなければ、死んだ木とは湿気の温床だ。光か闇かを求めて蠢く有象無象によって、それは文字通り温められている。ゆえに、温床。温かい床ゆえに、温床。
そしてキノコとは、湿気自体からひとりでに発生する形態だ。キノコの親は湿気であって、断じて別のキノコなどではない。キノコは進化系統から独立している。キノコに子孫はいても、祖先たる生物はない。家具に湧くゴキブリの祖先はゴキブリではなく、家具自体であるのとまったく同じように。
胞子植物と種子植物がどうとか、そんな話をするまでもない。湿気のある所にキノコはある。キノコがなければ、湿気とは呼べない。
事実は、それだけだ。
当たり前だ。当たり前のことをわざわざ言わないでほしい。
だが待ってほしい。話せばわかる。
もう少しだけ、話を聞いてほしい。ここカサタテ荘のキノコは、他所とは一味異なるのだ。
たしかに、カサタテ荘は典型的なボロ屋敷だ。その点に疑いはない。ここにはボロ屋敷にあるべきあらゆるものがある。ゴキブリもいるし、雨漏りもするし、建物全体が便所かのように臭うし、心霊写真も撮れる。
にもかかわらず、ここの象徴はキノコなのだ。何にも増して、キノコなのだ。
たかがキノコと舐めてもらっては困る。腐った床の水溜まりに溺れるシロアリを差し置いて、キノコなどという陳腐な物体がボロ屋敷の象徴たりうるためには、れっきとした理由があるのだ。
そう、何を隠そう。
ここのキノコは。
デカくて、多いのである。
カサタテ荘自体がキノコの巨大な原木だ、と言うと分かりやすいかもしれない。どこを見てもキノコ、それも多種多様な。この中のいくつかは間違いなく新種だが、そんなことを報告しても仕方がない。
原木の中の原木、原木の王。キノコが本体で、俺たちは付属品。
扉はキノコで開かない。蛇口をひねればキノコが出る。カサタテ荘にエアコンはないが、仮にあったとすれば、キノコは風に乗って空を飛ぶ手段を手に入れるだろう。
部屋からキノコが生えているのではない。たまたまキノコが存在しない空間を、部屋と呼んでいるに過ぎない。
菌、胞子、見渡す限りの、量と質と腐敗。それこそがカサタテ荘の本質だ。