キノコの家 ②

さて、そんなカサタテ荘最大の特徴が、キノコである。

 

何をいまさら。そう思われても、まあ無理はないのかもしれない。雨漏りとキノコは、ボロ屋敷の風物詩だから。

 

だが少し、取り合ってほしい。長くはかからない。

 

始めよう。木造建築とは何か。

 

これすなわち、死んで久しい木の塊だ。法隆寺平等院も、みな平等に死んでいる。そのいくらかには歴史的価値とやらが認められ、適切に管理され、死の直後の姿を厳然と保っている。

 

だがもちろん、カサタテ荘はそうではない。ここの木は死後七十五年の時間を、一年たりとも碌に管理されずに過ごしてきた。ともにある人間は多かったが、その中にまともな人間はいなかった。

 

管理されなければ、死んだ木とは湿気の温床だ。光か闇かを求めて蠢く有象無象によって、それは文字通り温められている。ゆえに、温床。温かい床ゆえに、温床。

 

そしてキノコとは、湿気自体からひとりでに発生する形態だ。キノコの親は湿気であって、断じて別のキノコなどではない。キノコは進化系統から独立している。キノコに子孫はいても、祖先たる生物はない。家具に湧くゴキブリの祖先はゴキブリではなく、家具自体であるのとまったく同じように。

 

胞子植物と種子植物がどうとか、そんな話をするまでもない。湿気のある所にキノコはある。キノコがなければ、湿気とは呼べない。

 

事実は、それだけだ。

 

当たり前だ。当たり前のことをわざわざ言わないでほしい。

 

だが待ってほしい。話せばわかる。

 

もう少しだけ、話を聞いてほしい。ここカサタテ荘のキノコは、他所とは一味異なるのだ。

 

たしかに、カサタテ荘は典型的なボロ屋敷だ。その点に疑いはない。ここにはボロ屋敷にあるべきあらゆるものがある。ゴキブリもいるし、雨漏りもするし、建物全体が便所かのように臭うし、心霊写真も撮れる。

 

にもかかわらず、ここの象徴はキノコなのだ。何にも増して、キノコなのだ。

 

たかがキノコと舐めてもらっては困る。腐った床の水溜まりに溺れるシロアリを差し置いて、キノコなどという陳腐な物体がボロ屋敷の象徴たりうるためには、れっきとした理由があるのだ。

 

そう、何を隠そう。

 

ここのキノコは。

 

デカくて、多いのである。

 

カサタテ荘自体がキノコの巨大な原木だ、と言うと分かりやすいかもしれない。どこを見てもキノコ、それも多種多様な。この中のいくつかは間違いなく新種だが、そんなことを報告しても仕方がない。

 

原木の中の原木、原木の王。キノコが本体で、俺たちは付属品。

 

扉はキノコで開かない。蛇口をひねればキノコが出る。カサタテ荘にエアコンはないが、仮にあったとすれば、キノコは風に乗って空を飛ぶ手段を手に入れるだろう。

 

部屋からキノコが生えているのではない。たまたまキノコが存在しない空間を、部屋と呼んでいるに過ぎない。

 

菌、胞子、見渡す限りの、量と質と腐敗。それこそがカサタテ荘の本質だ。