キノコの家 ①

共生とは自然の神秘である。

 

例としては、カクレクマノミとイソギンチャクの関係が一番有名だろう。塗りたてのペンキのような白い縞の映える、クマノミの鮮やかなオレンジ。その身体を包み込むように海底に揺らめく、有毒のイソギンチャクの触手。

 

その光景が神秘的だからか、あるいは健気だからか、その対称な関係はどの生物図鑑にも載っている。

 

可憐さと不気味さのギャップ。光の中に生きるべき熱帯魚と、陰気で偏執的な棘皮動物。だがイソギンチャクの毒の触手は、掌の中の獲物を麻痺させるためではなく、クマノミというアイドルを守るために揺れている。アイドルのほうも、自力では動けないその動物に、外から食べ物を持ってきている。

 

決して相容れぬようにも見えるそのふたつの生物は、にもかかわらず、互いを互いの助けとして生きている。

 

互いの欠点を補って。互いの欲するものを与えあって。

 

もっとも、クマノミとイソギンチャクみたいにその……物語的なものは、俺たちにも理解できる関係だ。世界にはもっとあらゆる奇妙な生物がいて、奇妙な環境に適応した奇妙な生き方をしている。自然界は広いから、共生程度の関係、別に珍しいものではない。

 

自然の神秘って言うのはたしかに本来、もっと異常で、理解不能なものかもしれない。

 

でも、俺は思う。テレビの中の動物譚に感動して、図鑑を眺めつづけて一日を過ごしていた幼少期の俺は。そんな少年は大きくなって、物語の美しさよりも利害の構造を探るようになって。

 

それでもなお、同じ感慨を覚え続けている。

 

共生とは自然の神秘である。そして、巧みに生きる彼らの知恵と努力は、かけがえなく神聖だ。クマノミとイソギンチャクのように。美女と野獣のように。

 

だが世の中には唾棄すべき、ただれた共生関係だってまた、ある。

 

カサタテ荘の住人とキノコの関係は、そんな今すぐ解消すべき関係のうちのひとつだ。

 

カサタテ荘というのは、俺が管理しているボロ屋敷だ。先代からここを引き継ぐときに無理やり読まされた資料によると、この木造建築は戦後すぐに建てられて、もう七十五年にもなるらしい。

 

資料曰く、アパートと横文字で称せるほどこの木組みが小綺麗だったことなど一度もなく、建築当初から床は軋んでおり、扉は歪んでいたそうだ。

 

最初からそうだったのだから、あと四半世紀で築一世紀にもなるいまはもう目も当てられない。床は軋んでいるというよりは腐っていて、踏むとギーッと音を立てることすらせず、ただ足が沈む。扉のいくつかは開かず、一部の住人は窓から出入りしている。

 

ただでさえ古いのに、いまの住人みたいなどうしようもない奴らが七十五年間住みつき続けていたから、もうガタが来ているなんてもんじゃない。すべてが不足していた時代はまだしも、この満たされた現代にこんなところに住むのはごめんだと俺は思うのだが、地獄みたいな立地と天国みたいな家賃のせいで、まだこの負の遺産は現世に残り続けてしまっている。

 

そしてその家賃すら、奴らはろくに払わない。

 

こんなところ、とっととつぶしてしまえばいいのに。いつもそう思うのだが、ついにそうする機会がないまま、ここまで来てしまった。

 

惰性と諦めの遺産。ここの住人の例に漏れず、俺もおそらく、また。

 

俺自身がここでの生活に甘んじていることに、そしてそれを異常だと思わない惨めさに、俺は行き詰まりに似たものを感じている。