どんな不思議も、見続ければすぐに慣れきって、気にも留めなくなってしまう。
どんな魔法も、使い慣れれば新鮮味はなくなって、ただの生活の知恵のひとつになってしまう。そしてもし、わざとらしい手品のトリック以外に使い道がなかったら、ひとはそれを役立たずの魔法だと決めつけて、誰かに試して見せることすらしなくなってしまう。
どんな絶景も、もしそれが自分の部屋から見える景色なら、じきにちっともありがたくなくなってしまう。それでもし、真珠の降り注ぐような春の朝が遮光カーテンの後ろにあって、そのうえそれを知っているとしても、ひとはなんのためらいもなくカーテンを閉め切って、ちんちくりんな昼間まで寝続けてしまう。
いまぼくが感じている不満は、まさにそんな感じのことだった。いまのぼくには、並の人間が一生かかっても手に入れられない量の知識がある。というより、すべての人類がそれぞれおのれの半生をかけて積み上げた博物的な知識を、ぼくはあの一瞬ですべて手に入れた。なぜそうわかるかといえば、ぼくがそう知っているからだ。そういう取扱説明書的なものは、おそらくもともとだれの知識でもなかっただろうけれど、とにかくいまのぼくの知識ではある。
だからぼくは、何者にでもなれるはずだ──文字通り、人類がなったことのある何者にでも。いや……よく考えると、スポーツ選手とか、そういう知識だけではどうにもならないものは厳しいかもしれないけれど、とにかくたいていのものに、ぼくはなれる。昔から夢なんてなくて、「将来の夢について書きましょう」という小学校の作文を白紙で提出しようとしたこともあるぼくだけれど、なんにでも簡単になれるとなれば、きっとなにかにはなるはずだ。
……そう、なにかには。
すべてを知ってから四時間。その四時間のあいだに、知識はずいぶんと身近なものになった。気になることが全部自分で解決できるのはものすごく快適だし、たった四時間の経験でもう、もとのまどろっこしい人生には二度と耐えられないような気がしてきていた。前から気になっていた思いつく限りのことをぼくは知ろうとして、そして知った。思いつかなければ、ぼくはあたりを見渡して、ぼくが知っていることを意識しておきたいと思えるようなすべてのことを探して、片っ端から思考にのぼらせた。一生をこうして過ごせればいいとすら思ったし、それは十分現実的な選択肢に思えた。
でも、たった四時間で限界だった。全人類の知識が、ぼくを楽しませ続けられたのは。ぼくが、魔法から醒めなかったのは。