理解を理解しない ②

その後の五分間でぼくが知ったのは、宇宙を構成する全素粒子の一覧と、クフ王のピラミッドの内部構造と、三年前にニュージーランドで見た、原色の絵の具をそのまま塗り固めたようなけばけばしい黄色の頭の鳥の名前と、ビーフストロガノフの作り方と、ぼくが生まれた日、真冬の東京に降った雨のつめたさと、それからぼくが知識とたわむれている間に愛想をつかして出て行ってしまった、同居人の角ばった後ろ姿だった。最後のひとつ以外をぼくはすでに知っていて、インターネットで検索をかけるかのようにぼく自身の脳に聞いてみると、まるでずっと前からぼくに聞かれるのを待っていたかのように、すべてを理路整然と説明してくれた。最後のひとつはその新しい知識には含まれていなくて、目の前で起こったはずのことながら、どうしてかいちばん不正確な知識だという確信があった。

 

……それなら。ぼく自身について知ろうと思ってゲノム配列を知識から引き出してみたはいいものの、あまりに長くて読めたものじゃないなと思いながら、ぼくはふと考えた。むしろこの目で見たり聞いたりしているものほど、信頼できないものはないのかもしれない。ぼくの五感が感じ取った情報は、視細胞とか耳骨とかそういう七面倒くさいプロセスを通じてぼくの脳に送られてくる。当然、そのシステムがバグって、そこにないものが見えたり聞こえたりすることだってある――ためしに知識を検索してみたら、ものすごい数の事例があった。その反面、ぼくの知識は、そんなシステムを通さずに、ただそこにある。

 

そう考えると、ぼくがすべてを知っている以上、これ以上なにかを見聞きしても仕方ないのかもしれない。だからとりあえず、今日は大学には行かず、知識と遊んで過ごすことにしよう。ぼくが知っていることについて、まだまだ知りたいことがたくさんある。

 

自室に戻ろうとして立ち上がると、机の上の雑誌が目に入った。それは共用リビングを自分のものだと思い込んでいる同居人が散らかしている車の雑誌で、ぼくは車にはなんの興味もないから、一度も読んだことがなかった(と、ぼくの不正確な記憶が記憶していた)。手始めに知るにはちょうどいい、そう思ってぼくは念じた、その刹那ぼくは表紙の、ぶつけたら修理費で破産しそうな形をした、カナブンを五時間磨いたような黄緑色の車のすべてを知っていた。だがそれでも、同居人がなぜこんなものを愛するのかについてだけは、さっぱり分からなかった。他の車を見てみればわかるかもしれない、そう思ってぼくは表紙をめくりかけ……見なくても、雑誌の中身は知っていることに気づいてやめた。

 

雑誌を置いて自室に戻っても、ぼくは同じ調子で続けた。ぼくの部屋のあらゆるものーーたとえば、エアコンの配管とか福引きの景品のティッシュケースとか、いつのまにか部屋に転がっていた、誰かが何かの意図を持って作ったらしいこと以外の一切が意味不明だった金属の部品とか――に、ぼくは車に向けるよりはまだマシな興味を向けた。そのすべてをぼくは理解して、例の部品は洗濯機の裏の正しい場所に取り付け直して、身の回りにもう知るべきものはなくなった頃……

 

……ふと時計を見ると、まだ午前十時を指していた。