それは文学か? ②

理論の論文は文学かと問われれば、少々の逡巡ののち、わたしはイエスと答えるだろう。文字の羅列はすべからく文学であるというラディカルな意見(あるいは思考停止)は抜きにしても、純粋に未知なるなにがしかへの好奇心(あるいは、誰かの背伸びした虚栄心)を満たすためだけにあるその浮足立った空想の記述には、文学以外の呼び名を与える方に無理がある。美しい定理と美しい物語はどちらも単に鑑賞のために存在し、その価値を担保するのは、すくなくとも書かれた時点では、その文章の書き表す情景の美しさだけだ。宇宙の真理と登場人物の心理はどちらも世界の深淵をほのめかしており、われわれの仕事は、それを読んで内容を反芻し、自力で使いこなせるように繰り返し訓練し、最終的には新たな視点をもって世界なり隣人なりを理解することだ。

 

さてだが、文章をわれわれがどう受け取るかではなく、どういうふうに扱われるかに目を向ければ、論文とその他文学の間の見逃せない相違に気づくだろう。だれかが論文に言及するとき、多くの場合そのひとが意味しているのは論文という文章全体ではなく、論文が主張する結果だ。そうやって論文を指すとき、著者がつくりあげた文章の他の部分は、要約されるのでも批判されるのでもなく、単に無視される。論文とはイコール主定理であり、あるいはイコール証明技法であり、人によって切り取り方は異なるものの、どちらにせよ論文じたいは議論の対象にならない。その態度を小説で例えれば、文学との違いは明白だろう――すなわち、クライマックスが一番面白いのだから、クライマックス以外の部分を説明する必要はない、と。

 

文学的には馬鹿げたその態度が論文で成立することをもって、わたしは文学が冗長だとか論文に内容がないだとか言う気はない。学術的な営みにはさきにのべたような無視が必要なことを、わたしはよく知っている。理論とはそう美しいとは限らず、ときには単なる計算以上の意味を持たぬことに、数ページの数式を費やさねばならぬこともある。厳密な証明はけっこうな割合で、厳密さの担保以外のなにごとも示唆しない。おそらく理論の不自由さからきているだろうその必要悪は、ほかの文学においては、面白くない一部分という克服すべき悪だ。こう書けば論文は学術的正しさを盾につまらなさを正当化しているようにも見えるが、できないものはできないのだから仕方ない。仮に正当化だとしても、論文を主定理と同一視する態度は、その正当化を受け入れている。

 

ではわれわれはなぜ、文章イコール作品とはとても呼べぬそれらの文章を読むのだろうか。あるいは、誰も読まないのだとしたら、なぜ書くのだろうか。好奇心を満たすか、あるいは感動するためなら、もっと上質な文章がいくらでもあるというのに?

 

残念ながら、正直わたしにはわからなくなってしまった。背伸びした虚栄心から解放されたいま、わたしが読みたいのは等身大の作品であって、作品を論理的に成立させるための言い訳ではないのだから。