遅すぎる創作欲へ

青年期を何かしらの勉学に費やし、無事につつましやかな人生の見通しを獲得したわたしたちは、まるで手に入れた安泰こそが理由かのように、オリジナルなものを生み出す衝動に駆られている。あるものは絵を、あるものは小説を書き、それはわたしたち自身の成功から類推されるセンスと比べてはるかに下手くそで、だがわたしたち自身は、勉学という慣れ親しんだ成功からの類推で、日常的な訓練によって芸術の道が拓けてゆく未来像を、合理的判断の帰結だと信じている。

 

これまで見向きもしなかった創作活動にやおら入れ込むその動機は、すでにゴールを迎えた社会的成功のほかに新たな挑戦すべき世界を探してのことかもしれないし、多面的な名声を求めてかもしれない。あるいは客観的に見て豊かなはずの人生経験をアウトプットする方法を必要としたのかもしれないし、もしかすれば、青年期についに経験することのなかった挫折を、遅ればせながら経験することかもしれない。とにかく、初心者集団であるわたしたちは下手くそな何かを創り、見せ合い、そして初心者の下手を嗤ってはならぬという規範に律儀に従いながら、とても生計に足るレベルではない創作物を、思ったよりは上手だと互いに褒めたたえつづけている。

 

人生をいつでもやり直せるものと知っており、それをはるかに楽にしてくれるはずの金銭的余裕を持ちながらなお退屈なレールの上から外れようとしないわたしたちにとって、芸術とはあくまで余興である。人生計画に組み込むには目覚めるのが遅すぎたという後付けの理由で、わたしたちはわたしたちの絵や小説を、具体的な何かに役立てる日を夢見ない。にもかかわらず、わたしたちの描く人生像において、創作とは唯一の心の拠り所だ。人生の終焉の日はいまだ拝めそうになく、だがそれまでを無味乾燥な勉学の帰結だけで生き抜く自信はなく、わたしたちは、残りの数十年の退屈をどうにか埋めるための間に合わせの手段として、絵筆をとり、キーボードを叩く。

 

その態度はまさしく、世間で結婚や育児に求められるものと同じだろう。自分の人生を生きるのに飽きたわたしたちは、他人の人生とて結局は同じように無価値なのだと知りながら、それでも他人に尽くし、他人を育てる。その姿はまさしく、わたしたちが青年期に馬鹿にしていた姿と同一だ。わたしは無価値で、だからわたしの創作に価値があると信じる理由はどこにもなく、だがそう信じることでしかこの先の何十年を生き抜けぬという、達観めいた悲観のなれの果て。

 

さて、冷笑とは無益なものだ。こうやって身近なすべてを斬ったつもりでいても、結局だれも傷つかないし、創作を恥じて辞めたりもしない。自爆テロを仕掛けたわたし自身がそうなのだから、そうなのだ。だからわたしは、これからも下手くそな小説に、いずれ来るはずの上達をいつまでも待ち続けながら、ありあまる人生の時間をつぎ込むことになるのだろう。

 

まあ、それは仕方ない。そうやって人生が終えられるなら、それが本望というものだ。