頭脳の堕落

久々に、競技プログラミングのコンテストに出た。せっかくだから、たまには日記らしいことも書いてみることにしよう……

 

……とまあ、お気づきの通り、そんなことをする気はない。こういう書き出しで結局わたしの行動をなにひとつ書かないことについて、わたしには前科がある。疑うなというのも無理な話だ。

 

というわけで、いつものように始めることにしよう。今日のテーマは、問題を解くときみたいに、頭をかきまわすような勢いでなにかを考えることについてだ。

 

昔、わたしにとってそんな思考は普通だった。いや、そんな思考こそが日常だった、というべきか。とにかく中高生の頃、問題を解きながら、あるいは難しい数学の本をなんとか理解しようという、身の丈に合わない見栄っ張りに挑戦しながら、わたしの頭はフル回転していた――まあ、それは少々、美化された記憶なのだろうけれど。

 

大学に入ってしばらくすると、わたしは研究を始めた。研究と言えば高遠な響きだが、実際は先生の代わりに問題を解くという、これまでさんざんやってきたことの延長線上の作業だった。その作業は当時、自分の力を発揮できることに純粋なよろこびを感じていた作業であり、そしてしばらくののち、その作業は自分の論文を出す過程における、甘美なデザートになった。なぜなら、テーマを探したり論文を校正したりといった作業を、わたしはまったく得意とも、好みともしなかったからだ。

 

さて、若い頃のわたしには意外なことだろうが、研究とは予想以上に、頭を使わないいとなみである。気になることがあれば、研究者がまずやることは、似たような先行研究があるか調べることだ。検索で出てきた論文の概要を読み漁り、ざっと眺めて、使えそうかどうか判定することだ。論文を書くときにやることは、記号をどう定義し、定理をどう並べるかだ。断じて、自分の頭脳の限界に挑戦することではない。ましてや、申請書を書いているときなど。

 

そして、そんなことを繰り返すうちに、わたしは頭を使うことを忘れてしまった。

 

少し前のわたしはこう言うだろう。「研究でもなんでも、頭を使う機会なんてごくわずかなんだから、それ以外の能力を磨いた方がいい。なぜなら、頭をかきまわすことについて、わたしはこれまでの人生でさんざん訓練してきたのだから」と。実際、その指摘は正しいのだろう。わたしが挑戦したわたしの頭脳の限界は、ほとんどの場合もう引退した競技か、あるいは衒学のためにあったのだから。

 

だが。コンテストに出場し、わたしは久々に、頭を使えば使うほどいい状況に置かれた。そしてわたしは、実感させられることになる。わたしが頭を使えなくなっていることに。ストレートな頭脳勝負ではなく、メタ読みと老獪さで戦おうとしている自分に。短時間で頭をいじめ抜く試みがそれほど重要なものではないと知っていても、それは悲しい認識だ。

 

烈火のような集中力の面で、わたしは堕ちている。いまのわたしにはもはや、現役選手のときのわたしは見る影もない。それが仮に、わたしの人間的な堕落を意味しないとしても、残念なことにかわりはない。

 

では、興味深い問いを提示して終わろう。わたしはこれ以上に堕ちるのだろうか? 堕ちるとすれば、どこまで堕ちるのか? 堕ちた先で、わたしは何を見るのだろうか? 堕ちたことを、わたしはどうとらえるのだろうか?

 

もちろん、堕ちてみるまではわからない。だが唯一確かなのは、この現在、わたしがそれを良い未来だとは思わない、ということだ。