執筆感想文

昨日まで十一日間にわたって、わたしはひとつの短編小説の執筆を続けてきた。わたしが書きたかった情景がうまく伝えられたのかは分からないが、とりあえずは完結したということで、まずはひとつ満足している。

 

発端は十一日前、わたしに訪れた妄想である。その日のわたしの思考回路はどうやらファンタジーな方向に開けていたようで、ひとりの少女のひっそりとした滅びの姿が、えもいわれぬ感傷を伴ってわたしの頭に浮かんできたのだ。ちょうどそのとき、日記のネタが切れていたので、それならしばらくその少女と付き合っていくことにしよう、と思った次第である。

 

というわけでその日、わたしは軽く背景を設定した。まず、わたしが書きたいのは SF だから、主人公は人工知能だということになった。だから舞台は必然に未来であり、だがハイテクノロジーを描きたいわけではないので、その未来では、人類は厳しい生活を強いられることになった。そこまで決めればあとは芋蔓式に、すべての設定と、説明するべき背景設定のリストが決まっていった。最後に固有名詞だが、これはどう決めようが一緒である。

 

さて、書くべきことが決まっていれば、実際に書くのは難しくない。言うならば執筆とは算数のドリルを解くようなもので、確かに頭こそ使うが、その使い方は最初から分かっているのだ。やるべきことは、ふたつだけ。そのシーンで説明すべきことをすべて説明することと、そのシーンをつうじてストーリーを前に進めることだ。

 

そんなわけで、わたしは十一日間にわたって、毎日二千字ほどを書き続けることができた。そしてその作業は、今日のように抽象的な感想を記すよりはるかに簡単だ。何を書くべきかは最初から決まっており、わたしはその方針に従うだけなのだから。

 

さて、小説とはひじょうに非効率な媒体である。その証拠に、わたしは十一日前の数時間の妄想を形にするのに、二万字以上の文章をついやしたのだ。わたしの頭の中だけでじゅうぶんにすべての設定を管理できる、そんな単純な物語に、である。

 

その理由はおそらく、小説という媒体の不器用さだ。小説がストーリー以外の説明手段を持たない以上、どんな設定の説明にも、それなりの手間がかかるものだ。

 

たとえば、作中世界の歴史の説明を考えよう。今作の世界に、おそらくわたしは数百字ぶんの歴史しか設定していない。なぜなら、それだけで十分、クライマックスまで話を繋いでいけるからだ。

 

そしてもしわたしが、単に年表を用意すればよいだけなのならば、じっさいに歴史は数百字で語り切られるのだろう。だがストーリーの中では、歴史は簡単には語れない。すべてをストーリーに結びつけるという小説の要求上、歴史を語るには、その歴史の一コマが現在にかかわってくるシーンを用意しなければならないのだ。そしてそれは困難だ――ふつう、主人公は歴史というものを、そう頻繁には意識しないのだ!

 

このように小説とは、なにかを説明する能力をおおきく犠牲にしたうえで成り立っている。だから、二万字の小説も、内容をたもったまま、たとえば一千字に圧縮することは容易だろう――その過程で、臨場感と感動は失われるだろうが。

 

そしてそれゆえに、わたしには、新たな疑念が浮かび上がってくる。すなわち、こんなに長くかかったのは、ひとえにわたしの能力不足からではないか、ということだ。同じ感動が伝わるなら、文章は短い方がいい。そして、クライマックスの感動をたもったままに、わたしはもっと簡潔にやれたのかもしれない。

 

おそらくそれは正しいのだろう。どうすればよりスムーズだったのかは分からないが、短編を一本書いただけで、もっとも簡潔な文章の姿など探り当てられるようにはならないはずだ。だがとりあえず今は、書き切れたことに満足しておこう。なぜなら、文章を削るのは、あとからいくらでもできるのだから。