或る暗殺者の話 ③

壁を蹴るやいなや、ケイカは光のなかへと一息に飛び込んだ。目にも止まらぬ速さだった。無警戒のテツキが気づくよりも早く、ケイカの腕はその男の首を背後からがっちりと抱え込んでいた。

 

いつでも首を折れる態勢を整えて、ケイカは小さく、しかしはっきりと囁いた。

 

「なぜここにいる?」

 

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イカがテストを受けるだいぶ前から、テツキは組の会計係だった。彼の年齢を推測するのは難しかった――彼に関するたいていのことは、飄々とした性格と誰もに向ける人懐こい笑顔に覆い隠されていた。それでもどうやら、一部の幹部よりも古株であることを、ケイカは風の噂で聞いていた。

 

にもかかわらず、彼は組じゅうから舐められていた。じっさい、テツキはほんとうに弱かった。彼は己の肉体と向き合うことにも、武器を扱うすべを身につけることにも興味はなかった。そのくせ、いつもみずから新米組員の訓練の相手を買って出て、毎回コテンパンにぶちのめされていた。

 

それでもテツキがずっと組に居続けられたのは、ひとえに彼が優秀だからだった――優秀すぎて、組の中ですらそれを知るひとは多くなかった。そのわけは、テツキの仕事の中身は、組員にすら知らせられない情報でいっぱいだったからだ――闇ルートで稼いだ金の処理から、暗殺の依頼に至るまで。

 

そして、テツキの優秀さを知る数少ない組員のひとりがケイカだった。情報収集の面では、組ではテツキの右に出るものはいなかった。一匹狼のケイカにとって、仕事に必要なのは情報だけだったから、テツキは唯一、ケイカとまともに話の出来る人間だった。

 

イカはテツキに全幅の信頼を寄せていた。いやどちらかといえば、テツキ以外をまったく信頼していなかった、というほうがただしいかもしれない。次のターゲットを伝えるところから細かい後処理まで、ケイカの補助はすべてテツキひとりの仕事だった。

 

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答える代わりにテツキはうめいたが、ケイカに必要なのは答えではなかった。答えをどう仮定しても、ケイカの脳の冷徹な演算装置は、おなじ合理的な結論を弾き出していた。この場でテツキの首を折り、ついで自分も首を吊れ。テツキがひとりなら、ケイカはただ自分自身の計画を進めればよい。テツキがひとりではなかったなら、それはふたりが一緒に組から消されるということだから、やはりここで終わりにしておくのが身のためだ。

 

だが、ケイカの直感がこの結論を拒否した。研ぎ澄まされた感覚の中でのみ働く、暗殺者としての動物的な本能が。その正体は、考えるべきことがなにか抜けているという疑念だったのかもしれない。あるいは、稀代の暗殺者ナガサカ・ケイカの最期として、その終わり方はふさわしくないという、ケイカなりの美学だったのかもしれない。

 

イカがテツキの首から手を離すと、テツキの身体は不器用に崩れ落ち、どさりと無様な音を立てた。テツキはすぐに立ち上がって両手を上げると、向き直ってケイカをまじまじと眺めた。

 

「ケイカさん、今日は仕事ではなかったはずですが」テツキはおそるおそる訊ねた。

 

「仕事をしに来たわけではない」いつもどおりのぶっきらぼうで、ケイカは答えた。ここではない場所でじぶんの仕事をしたことは、黙っているつもりだった。

 

しかし、テツキは騙されなかった。「この場所では、そうでしょうね」テツキが言うと、夜の倉庫を吹き抜ける冷たい風が、ケイカの髪を不快に揺らした。

 

「ぼくが言っているのは、ケイカさん、あなたはすでに、仕事を終えたあとなんじゃないかということです。べつの、組とは関係のない仕事をね」

 

図星だった。ケイカは黙って頷いた。この観察眼こそ、ケイカがテツキを信頼するゆえんだった。テツキのほうは、自分の目がただしかったことに満足して、わざとらしくにやりと笑った。

 

そうして表情を戻すと、テツキはまっすぐに切り出した。「で、どうしてこんなところにいるんです」

 

イカは黙って、梁の下の台を顎で指した。テツキが振り向くと、電灯の光が倉庫の砂埃を照らした。テツキはすぐに状況を把握し、答えた。

 

「状況は理解しました。あなたを止めるつもりはありません。ですが、その前に、ぼくからの最後の依頼です。すべてを終わらせる前に、どうしてこうしようと思ったのか、聞かせていただけますか」

 

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イカはすべてを話した。はじめての殺人のときにケイカの心に芽生えた、わずかな高揚のこと。その高揚を、もう久しく感じてはいないこと。殺さない理由がないのとおなじように、殺す理由もないこと。高揚に理由を求めるために、妹を殺してみたこと。そして案の定、高揚なんて得られなかったこと。

 

そして、このまま仕事を続けることもできるだろうが、終わらせるタイミングは今しかないだろうということ。

 

テツキは神妙な顔で聞いていた。ケイカの前で、彼がこんな顔をすることはめったになかった――一部の組員と違って、ケイカは相手の表情を見て激昂したりなどしなかったから。ケイカがこんなに長く語り続けることなどなかったから、テツキは一瞬、ケイカに家族のような親しみを覚えた。すべてを聞きおわると、テツキは言った。

 

「分かりました。意志は、固いんですね」砂埃が舞った。

 

「ここ数年、ずっと考え続けてきた計画だ」ケイカは答えた。

 

「やり残したことは、何もないですか」確認するように、テツキは訊ねた。

 

「ない。何度も確認した」ケイカぶっきらぼうに、だが誠実に答えた。

 

「では、ぼくからはなにもありません。行きましょう」テツキは台の方へと歩き出した。ケイカは黙って、後に続いた。台までたどり着くと、ケイカは隠しておいた縄を拾い上げ、ふたたび梁にくくりつけた。そのいちぶしじゅうを、テツキは黙ってみていた。

 

「ケイカさん、これまでありがとうございました」テツキは言った。「あなたの代わりはそう見つかりそうにありませんが、今後のことは、ぼくがどうにかします。もっとも、あなたがご自分の死後のことを気にするひとだとは思っていませんがね」

 

イカは縄に首を通した。「わたしもだ。ありがとう」ケイカは感謝という概念をよくわかっていなかったが、こういうときは感謝をしておくものだということは知っていた。そうして、ケイカが足元の台を蹴ったその瞬間、

 

テツキが素っ頓狂な叫び声を上げた。

 

「どう……した」首に食い込む縄の圧力に逆らって、本能的に、ケイカは訊ねた。テツキは、見たことがないくらいまごついていた。「ケイカさん、ケイカさん!」

 

「な……んだ」ケイカの質問に答えようともせず、テツキはケイカの身体を持ち上げはじめた。こうはならないはずだった。「分かったと……言ったじゃないか」首元の圧力が減るのを感じながら、ケイカは言った。

 

テツキは泣き叫んだ。「ケイカさん、ここでケイカさんが死んだら、ぼくはどうやって帰ればいいんですか! こうなって怪しまれるのは、まちがいなくぼくですよ! ぼくに現場の経験なんてないのに!」 テツキは慌てに慌てまくっていた。

 

「この辺りは誰もいないし、どう見ても自殺死体だ。黙って帰ればいい」そう言い終わったころにはもう、ケイカの身体は地面におろされていた。ケイカは、じぶんが死に損なったことを理解した。「黙って、って言われても困りますよ!」 テツキは言い返した。

 

「落ち着け」ケイカは立ち上がり、説明しようとしたが、同時にそれはもう無意味なことに気づいた。こんな取り乱した同僚と一緒では、今日ここで死ぬのは難しそうだ。明日またここではないどこかに行って、そこであらためて首を吊るとしよう。

 

イカはあたりを見回した。そこは何の変哲もない、無機質な倉庫の中だった。ケイカが向き直ると、テツキはまったく正気を取り戻して、いつも通りの笑顔でそこに立っていた。まるで、さっきまでのはすべて幻だったかのように。テツキは、最初から最後まで正気であったかのように。

 

いや、じっさいのところ、テツキは正気を失っていたわけではなかった――テツキの行動はすべて演技で、首の縄によって判断力の鈍ったケイカが、それを見抜けなかっただけ。そこでケイカはようやく、テツキを絞め殺して自分も死ぬという選択肢を忘れていたことに気づいた。

 

イカは思わず、憮然とした表情を浮かべた。その表情を目にして、テツキはにやりと笑った。「ケイカさんほどのひとでも、騙されることはあるんですね」ケイカは、久しぶりに計画に失敗した。そして久しぶりに、ケイカはじぶんの判断力の欠陥に気づいた。

 

もはや、ケイカに死ぬつもりはなかった。ケイカの合理的な自己観察が、ケイカ自身についてそう分析していた。それを見計らって、テツキは鞄から一枚の紙を取り出すと、こう切り出した。

 

「ケイカさん、次の仕事です。日時は、いつでも構いません。ターゲットは、八十幡弘平以下、八十幡組幹部十四名。報酬は、八十幡組組長の椅子。さあ、天下でも取りましょうか。まあ、もっともケイカさんが、天下なんかに興味があるとは思いませんがね」