中身のない文章

学会とは、知の博覧会だ。たくさんの研究者が一堂に会し、最近考えたことを持ち寄って発表する。そして、あるものは純粋に知的な興奮のために、またあるものは自分の研究に生かせるなにかをさがすために、互いが互いの発表を聴いてかえってゆく。

 

博覧会である手前、その発表の数は膨大だ。開催時間や発表の数は学会によってまちまちだが、長いものでは一日に八時間ものあいだ、二十を超える発表を聴くことになる。そしてそのハードな日程は、なんと四日ほど続いたりもする。

 

だが人間の脳は、一日に八時間も学術の話を聴き続けられるようにはできていない。そう。学会は、ひじょうに疲れるのである。だから、たとえどんなに楽しみにしていた学会でも、一日じゅう集中して聴き続けるのは不可能だ。ましてや、それが数日にわたるとあらば。

 

だからわたしたち発表者は、疲れ切った聴衆を相手に発表することになる。逆算して考えれば、発表を準備するとき、わたしたちは集中して聴いてもらえない前提で組立てねばならない。いくら中身がすばらしくても、聴き手が気合を入れないと分からないのならば、それはすなわち悪い発表だ。そんなものは、誰も理解できないから。

 

逆に言えば、よい発表とは、ある程度気を抜いてもわかる発表のことだろう。わたしは発表を、ちょうどお茶の間で見るテレビのように、ミカンでも食べながら聴いていたい。その場の全員がわたしと同じ価値観だとは思わないが、すくなくとも、わたしはわたしがよいと思う発表をするつもりだし、そういう発表をよいと言うつもりだ。

 

さて、この日記にもおなじことが言える。わたしは毎日日記を書いているから、読者にとっては、わたしの文章は毎日読めることになる。そして、毎日読める平均千二百字の文章を、毎日真剣に読むやつなんているはずがない。だから、この日記のわかりやすさは、ほかの文章のそれよりも重要なのだ。

 

さて、発表でも文章でも、内容とわかりやすさはトレードオフだ。日記をはじめたころに比べて、わたしの文章ははるかにわかりやすくなったと自負しているが、その反面、内容も減っているように思う。そしてもしかすると、いまのわたしの日記では物足りなくなってしまったひとだっているのかもしれない。

 

もしあなたがそうなら、矛盾するようだが、わたしはあなたに共感できる。学会でのわたしは、いまでこそ気楽な発表を求めているが、昔はもうすこし血の気があって、詳細な中身を話さない発表に文句を垂れていた。それと同じだろう。

 

だが、残念ながらいまのわたしは、あなたの期待には応えられそうにない。まず第一に、読みやすくするのがわたしのやり方だ。そして第二の理由は、この文章で書いてきた第一の理由より、はるかに本質的だ。なにを隠そう、内容は薄めておかなければ、すぐにネタが尽きてしまうのだ。