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五か月前、この日記はとつぜん産声を上げた。当時のわたしの頭は、行き場のない思考の滞留でぱんぱんになっていて、それがあの日、ついに爆発したのだ。わたしの思考は、ツイッターに書くには複雑すぎるしフェイスブックに書くには鬱々としすぎていたから、わたしに残された選択肢は、あたらしいキャンバスをつくることだけだった。

 

そうして意気揚々と始めたはよいものの、無限に溜まっていたように感じられた思考というガスは、じつのところ、そう大量でもなかった。二週間後、すっかりガスを吐き切ったわたしの脳は、もはやあたらしいガスを欲していた。吐きだしつづける、ただそれだけのために。毎日書くことで文章を練習するという、おまけの目的のために。

 

さて、だがそのおまけの目的はすばらしい仕事を果たしたようだ。わたしがここまで日記を続けてこられたのは、文章の練習だったおかげだ。この五か月で、わたしはたくさん文章を練習した。執筆の技術について、さまざまなことに気づいた。そうして、研究の時間を犠牲にしながら、わたしの文章ははるかに上達した。

 

……と、わたしは思う。

 

正確に言おう。わたしは文章をたくさん練習したから、上達したとわたしは信じたい。じっさい、五か月前はまったく気づいていなかった文章の機微に、いまでは気づくようになっている。文章全体を、まえよりは上手に構成できるようになったと思っている。

 

だがほんとうのところは、わたしの理解の範疇を超えている。なぜなら、わたしは筆者であって、読者ではないからだ。よい文章とはすなわち、読者がよいと感じる文章である。筆者が書いていて気持ち良い文章ではない。読者に訊ねてみなければ、ほんとうのところはわからないのだ。

 

にもかかわらず、わたしはわたしの判断だけを頼りに、文章を練習してきた。わたしの文章の癖を修正し、構成を整理するのは、五か月のあいだ、つねにわたし自身だった。もっとも、わたしが読者ならどう思うかという視点は取り入れてきたつもりだが、それで読者がよいと思ってくれるのかはわからない。なぜならわたしはあくまで読者のふりをする筆者であって、ほんものの読者ではないからだ。

 

だから、もしかすると、この五か月でわたしの文章は下手になったのかもしれない。日記をはじめる前から、わたしの文章を好きだと言ってくれるひとはいた。だからこそ、わたしは文章を練習しようという気になったのだ。だがそのひとたちが、いまのわたしの文章を、洗練されたとわたしが思っている文章を、かならずしも好きだと言ってくれるとは限らない。

 

さて、それでもわたしはやはり、わたしは上達したと信じている。下手になっている云々はあくまで理論上の話で、わたしの文章への感性がわずかでも常識的ならば、そう間違った学習をすることはないだろう。だから、さきの段落の与える印象ほどに、わたしは思い悩んでいるわけではない。

 

わたしは悩んでいないから、わたしの力だけで進んでいける。これからも、わたしが読者なら良いと思うであろう文章を目指して努力できる。下手くそへと猛進している可能性を知っていながら、わたしは恐ろしいほどに前向きだ。

 

だがだからこそ、わたしは誰かの意見がほしい。慰めてもらうためではなく、自信をへし折ってもらうために。そして、もしわたしが誤った方向に進んでいるのなら、そう教えてほしい。わたしはわたしに自信があるが、そういうときはけっこう、足元をすくわれるものだ。