ハイエナの食肉生産 ②

どんな趣味も、はじめたてはすごく楽しい。はじめてから数日のあいだ、わたしたちの頭はその新しい趣味のことでいっぱいになって、たとえば新着情報を数十分おきにチェックしたりもする。まったく知らない状態でスタートすれば、その情報のすべてがわたしたちの糧となるから、最初期のあいだ、わたしたちはすごい勢いで成長する。

 

しばらく成長を続けると、わたしたちはある境地に達する――完全に理解した、という悟りの境地に。これまでの成長の結果、本質はすべて理解したから、あとはこまかい技術を身につけるだけだ、という全能感に。

 

もちろん、それはまったく真の悟りなどではない。だれしもそういう経験はあるだろうが、その後も成長をつづければ、すぐにその頃の無知に気づくことになる。しかし、そういう法則はひじょうに一般的なのにもかかわらず、わたしたちは身を包む全能感の心地よさから逃れられない。

 

こうなれば、全能感はわたしをかどわかし、つぎのステップへと進めようとする。すなわち、コンテンツをただ消費するのではなく、作る側にまわってはいかがかな、と。かんたんなパズルが解けるようになれば、こんどはパズルを作ってみよう。カードゲームの戦略を知ったなら、オリジナルカードをデザインしよう。小説をいくらか読んだなら、わたしが作家をやってみよう。わたし独自の理解は完全に完璧だから、わたしの作品は世の中を席巻し、わたしは一躍有名人に違いない。

 

言うまでもないが、そうしてできる作品はくだらない。誰もが考えることを新奇性だと思っていたり、バランスが崩壊していたりする。こんなひとがあまりにも多すぎて、たとえばカードゲームのフォーラムには、オリジナルカードの投稿を禁じる注意書きが、なによりも目立つ位置に置かれていることすらある。

 

だが、作者が熟練者だったらどうだろうか。ぽっと出の初心者などではない彼らは、全能感になど包まれてはいないが、全能気取りよりもはるかに多くを知っている。似非全能を乗り越えてなお創作意欲を持ち続けた彼らは、すくなくとも、たいてい成立した作品を作る。

 

さてわたしは、競技プログラミングという趣味にそれなりの熱量を注いできた。大学の代表として世界大会でメダルも取ったし、国内では上位ひとけたのレーティングを持っていたりもしたから、いちおう熟練者にカウントしても良いだろう。そしてわたしは、これまで百以上の問題をつくってきた。

 

ある時期、わたしはコンスタントに問題を作り続けていた。いくつかの自信作はおおくのひとに楽しんでもらえたと自負しているが、そうでない問題も、ほとんどは問題として成立していたはずだ。その点をもって、わたしは問題作りのノウハウを知っている、と言ってもよいだろう。具体的なノウハウに関しては過去にまとめたから、興味のある方は見てほしいが、やっていることは単純である。下手な鉄砲を数撃てる題材を用意して、実際に数を撃ってみよ。

 

さて、昨日のべた通り、これはわたしが研究で目指しているそのことである。たくさんの問題をつくれるフレームワークを探して、考察しろ。さすれば、とりあえず鉄砲は数撃てる。もっとも、順序の正確を期すならば、問題作りの経験から、この研究指針を導き出したと言えるかもしれないが。

 

とにかくわたしは、問題の題材は見つけられている。鉄砲を数撃てている。にもかかわらず、研究では、わたしはフレームワークを見つけられていない。問題作りとおなじことができると信じて研究をはじめ、もう四年以上にもなるが、いまだおなじ境地には至れていない。

 

理由はいろいろ考えられる。研究はひとつひとつに時間がかかるから、競技プログラミングのようなペースでは成長できないのかもしれない。あるいは、わたしは研究ではまだ偽りの全能感のなかにいて、フレームワークを探すという方針じたいが、わたしの無知の賜物なのかもしれない。だがいずれにせよ、わたしは数を撃とうと試みるしかない。ほかの趣味とちがって研究は、作る側でなければ意味がないからだ。