信仰は巨人を避ける

わたしの半生は、つねに問題を解くこととともにあった。

 

小学生の頃、わたしは算数少年だった。算数とは問題を解くことだから、わたしは問題を解き続けて少年期を過ごした。中学生になると、わたしは数学オリンピックに出会い、問題を解くのは競技の練習になった。しばらくしてわたしは競技プログラミングと出会い、この趣味は大学まで続いた。そうして大学も三年生になると、こんどは研究というフィールドで、やはり問題を解こうと試み始めた。

 

さて、そんなわたしにはひとつの信仰がある。おそらく、わたしと似たような半生を歩んだひとの多くに共通する信仰が。それは、問題は自力で解くのが偉いということだ。

 

この信仰は、ある意味では理にかなっている――問題解決を純粋に競技とみなし、競技中だったとしたら出せたであろうパフォーマンスだけを重視するのならば。競技本番中は解説を見られないのだから、解説を読んで解いても仕方ない。だから、問題は自力で解かないと意味がない。

 

逆に、目的がわたし自身の成長だけなら、この信仰は足枷になる。なにかを学びたいのなら、体系化された理論を学べばよい。わたしよりはるかに造詣の深いだれかの書いた、わかりやすい解説を読めばよい。自力で問題をとくのは、くらべてはるかに非効率だ。解説の一文を読めばたどり着けるはずの境地にたどり着くのに何時間もかかる。もっと悪くは、試行錯誤の結果、誤った結論にたどり着いてしまうことだってある。

 

それでもなお、わたしたちは問題を自力で解きたがる。競技の制限時間を超えて、考える意味のある時間を超えて。手は止まり、頭も動かず、心はもう白旗を挙げていても、内心では、さっさと解説を見たほうが今後のためになると分かっていても。ここで解説を見なければ、お蔵入りになるとわかっていても。

 

その理由はやはり、信仰としか言いようがないだろう。

 

さて、翻って研究である。研究とは未知の問題を解くいとなみだから、解説は存在しない。だから、信仰しようがしまいが、どちらにせよ解くのは自力だ。

 

だから研究者にとっては、問題を自力で解くのは当たり前で、競技者より一層自力を信仰している……かというと、実はそんなことはない。むしろはんたいに、研究者とはなるべく自力解決を避けたがる生き物だ。研究のスタートラインは、むしろ解説をすべて見たところにある。

 

ひとつ例をあげよう。仮にわたしが興味深い、しかし既存のテクニックを再発明したとする。そのテクニックはおもしろいから、競技者としては、わたしは価値のある体験をしたことになる。しかし研究者としてのわたしが感じるのは、むしろ落胆だろう。わたしの経験は、先行研究の調査によってバイパスされているべきものだったからだ。

 

この点で、研究は実際的だ。自力というロマンを不必要に追い求めて、結局なにもできずに終わったりはしない。研究者は、自力を最小限で済ます努力をする。研究とは、巨人の肩の上にまでロープウェーで登って、そこですこしだけジャンプすることだ。

 

さて、わたしは研究者だが、もとは競技者だ。だから、巨人の肩に登るより、地面のうえで飛び跳ねる方が好きだ。そのためには、わたしの近くに巨人はいてはならない。研究には、巨人がいるならまず登らねばならぬというルールがあるからだ。

 

だからわたしは、新しいフレームワークに飛びつこうとする。その領域で、競技者と研究者は一致する――すべて自力で解くという信仰は、巨人がいなければ正統なのだ。願わくば、わたしが新しい野原を見つけ、そこでただ飛び跳ねつづけていられますように。わたし自身の信仰のため、わたしが巨人と無縁でいられますように。