真摯さからの解放

昨日の日記に、わたしは別人格を登場させようと試みた。わたしとは正反対の考えを持つ、研究者の少女。ただ問題を解きたいだけのわたしと違って、彼女は研究の喜びを、巨人の肩に立つことじたいに感じている。

 

彼女を生き生きと描き出すのは、最初はとても困難なことに思われた。彼女の考え方はわたしにはほとんどないものだから、わたしが書けば、うんざりするほど表面的な、自我のないゾンビになってしまいはしないだろうかと。ちょうど、誰もがタテマエだとしっていることをホンネの様に語り、そしてどう探ろうともそれ以上の発言の出てこない、不気味なほどに思考停止した一部の現代人のように。

 

だが、書いてみれば、彼女は驚くほどスムーズに動き出した。あまりに彼女が流暢に言葉を紡ぐものだから、わたしの指は、ふだんわたし自身の考えを記すのよりはるかに高速にキーボードの上を滑っていった。まるで、彼女の考えこそがほんとうのわたしの考えで、ふだんのわたしは彼女の想像にすぎないかのように。

 

だから、わたしは最初は戸惑った。別人格の方がスムーズに語りだすのなら、その人格はじつはわたしと正反対ではなく、むしろひじょうに近いものなのではないかと。だが、考えてみれば、別人格が流暢なのは当たり前だ。なぜなら、わたし自身を書くのに必要な真摯さが、別人格にはまったく求められないからである。

 

もうすこし具体的に説明しよう。わたしがわたしのことを書くとき、わたしはわたしにたえず語り掛ける。わたしが書いているのがほんとうにわたしのことなのか、わたしはつねに不安である。わたしがわたしだと思おうとしているものだったり、わたしがそうであれば執筆上都合のいいものだったりはしないのかと。

 

だが、書くのがわたしではない架空の別人格なら、そんな心配は無用だ。別人格はそもそも存在しないのだから、真摯になりようがない。わたしが描きたい人格を、文章にマッチする人格を、わたしはただ書けばよいのだ。

 

さて、こう分かった以上、別人格はわたしの文章の武器になりうる。たまには、別人格の視線だけで日記をつづる日があっても良い。わたし自身の考え方への興味とおなじく、わたしは他人の考え方にも興味があるし、その他人は、自分の脳内に生きる別人格でもまったく構わない。

 

というわけで、明日からたまに、わたしではない誰かの視点で日記を書くことがあるかもしれない。そういうときは昨日のように文体を変えるから、書いているのがこのわたしではないと分かるはずだ。ああ、いまから楽しみになってきた。わたしにとってこれはあたらしい可能性への挑戦になるし、なにより、わたし自身に真摯であり続けるのもそれなりに疲れることだからだ。