ニヒリストでもできる、お手軽な自己肯定感の高め方

突然ですがみなさん、自己肯定感が欲しいと思ったことはありませんか?

 

職場で、学校で、突然必要になる自己肯定感。うっかり実家に置いてきちゃった~、なんて方も多いと思います。でも、欲しいと思ったときになかなか手に入らないのが、自己肯定感なんですよね。最近では、スーパーを三軒回っても在庫がない、なんて話もあります。

 

でも、さんざん探し回ったあげく、実は冷蔵庫に材料がそろっていた、なんてこともあるのがまた、自己肯定感なんです。でも、そんな材料で本当に作れるなんて、なかなか思えませんよね。できない理由がないと分かっているからこそ、人はできないと信じたがるものです。

 

ここまで聞いたみなさんは、こう思っていると思います――放っておいてくれ、と。人は不幸を志す生き物ですから、無理もありませんね。私も別に、一歩ずつ進んでいけばいい、なんてお花畑なことは言いませんよ。そんな花は切り刻んで、猫の糞にでも混ぜて投げ飛ばしてやればいいのです。

 

さて、ニヒリズムの話をしましょう。ニヒリズムは幸福を、どう扱うでしょう? 当然、幸福とは無知に他なりませんね。幸せとはすなわち、真理のなにもかもに目をつぶった状態なのですから。もちろんすべての人類はニヒリストですから、言い換えれば、私はいま貴方の話をしていることになります。

 

そして幸福が無知だからこそ、ニヒリストは全知を志向するのです。しかしながら、不幸と全知を同時に目指すのは、ニヒリストに相応しい態度とは言えません。なぜなら、それは互いに矛盾しないのですから。ニヒリストとは、自分の目指さないものを目指し、目指すものを目指さないものなのです。

 

逆張りとは無敵の態度です。逆を張ることも、逆の逆を張ることもできるのですから。どんな結論も完全な論理で正当化され、どんな結論もまた否定されるのです。我々は無能で、かつ全能です。都合のいい結論も悪い結論も、自由に選ぶことができるのです。

 

何を言っているのか分からない、そんな方が大半でしょう。めちゃくちゃな論理に、煙に巻かれているのかすらも定かではないと。でも安心してください。何を隠そう、当の私もそうなのですから。

 

しかし、こんな意味不明なニヒリズムの連鎖を止める、とびきり簡単な方法が一つだけあります。この非論理性の連鎖を支えているものはなんでしょうか? そう、論理です。

 

ですから我々は、論理そのものの逆を張ればよいのです。もはや肯定も否定もありません。私たちは、すでに正しさの通用する次元にはいないのです。そう、逆張りが無敵なのは、それを成立させる論理そのものにすら、対抗が可能だからなのです!