むかしばなし ぶつりがくとわたし

むかしむかしあるところに、具体的には六年前の東京に、一人の若者がおりました。彼はいたって普通の大学一年生で、新生活への期待に胸を膨らませるわけでもなく、ただ内輪のなれ合いと愚痴をツイッターに書き殴って毎日を過ごしていました。

 

彼がよく文句を言っていたのは、必修の物理の授業のことでした。彼は物理学の議論の並び順をでたらめに感じていました。なにが前提条件としてなにを導こうとしているのか、彼にはさっぱりわからなかったのです。公理なはずのものを授業が『導出』し始めた時、彼はさじを投げました。

 

ですが不幸なことに、彼にはまだ、その困惑を表す言語能力がありませんでした。そのため、彼は困惑の正体を、物理の非厳密性に求めることにしました。多くの数学徒と違い、実際の彼は、数式の非厳密な変形に抵抗はなかったのです。積分順序を勝手に交換しても、彼はすんなりと受け入れていたことでしょう。それでも彼は、非厳密性こそが自分の違和感の正体と信じて疑いませんでした。

 

大学生活も二年目の終わりに近づいたころ、彼はようやく困惑の正体に気づきました。物質科学と数学では、議論の組立て方が違うのだと。物理はなぜだか、公理を後出しするのだと。それなら自分で理解を再構築すればよい、そう勘づいたころには、すでに物理の課程は終わっておりました。

 

理解しないまま終わることに、彼にはいくばくかの抵抗がありました。うまく付き合えれば仲良くなれたかもしれない、そんな場合にはなおさらです。

 

ですが、最初から学びなおす決断はなかなか難しいものです。だから彼は学ぶ代わりに、こう考えることにしました。納得の方法の違いには、学び続ける限り苦労し続けるだろうと。毎度のように議論を組替える労力を費やしてまで、物理を学ぶ理由はないだろうと。

 

その考えは正しかったと、彼は今でも思っています。波長の合わない分野に、わざわざ飛び込むことはないのですから。ですが同時に、話のすれ違いで道を閉ざしたことに、やはりまだ少しばかりの未練が残っているのです。

 

おしまい