城を捨て、不義理で殴れ

現代では、多くが殴り合いでなく話し合いによって解決される。交渉のための言語スキルが、蹂躙のための武力より重要なこともある――サシの戦いでは、言葉は決して武力に勝てないにも関わらず。

 

攻撃のセオリーは相手の弱点を突くことで、だから防御側は陣形を整える。文武のいかんを問わず、普遍的な戦闘の原理だ。だが一点において、武闘と論戦は大きく異なる。

 

実際の戦争において、攻撃は味方の犠牲をともなう。だから、むやみやたらに攻撃するわけにはいかない。反面、論戦には兵站という概念はない。罵詈雑言なら、いくらでも投げつけ続けられる。

 

だから言葉の戦いでは、守り続けるのは筋が悪い。籠城は敗北への片道切符だ。では、守る代わりに、どうすればよいか。

 

幸いなことに、議論は双方にその気がなければ成立しない。降りしきる銃弾は死活問題だが、言葉の雨なら無視できる。すなわち、論破を恐れるなら、議論をしなければよいのだ。

 

すべての発言の揚げ足をとれ、すべての質問を質問で返せ。これらは不誠実な態度の代表だが、同時にとても合理的な態度だ。理屈の徒とは理屈で戦うな。明快な理屈が理屈以外で語られたとき、理屈の徒になすすべはない。

 

話の通じない馬鹿を演じろ。不誠実との謗りは、結局のところ、俺の土俵に立ってくれないという都合の良い愚痴に過ぎない。むしろ本当に不誠実なのは、リスクを負わずに攻め込む側なのだ。