箱庭を模造する

思想が土地なら、書くのは箱庭を作る作業だ。

 

学問ほどではないにせよ、人の考えは積み重ね式だ。今日の思考には、以前の思考に基づく前提がある。例えば、今日の前提はこうだ――書くとは、結論を出す作業。

 

言葉は、とりわけ短い言葉は、思考のデフォルメだ。広漠とした思考の平原に看板を立て、その場所の特徴を記す作業。この日記は、私の思考そのものという巨大な平野を模して作ったひとつの箱庭だ。

 

思考を進めるとき、私は箱庭としての前提を参照する――茫洋とした生の思想ではなく。人は忘れる生き物だから、複数日にわたって何かを考えるのなら、思考のパッケージ化は有用なテクニックだ。

 

しかしながら、看板の文字はもちろん、場所そのものではない。異国のウィキペディアを読んでもその地を体感したことにはならないのと同じように、箱庭は正確な模造ではないのだ。過去の自分の言葉という箱庭を見ての理解、それは厳密な意味での理解ではない。

 

急げば急ぐほど、文章が短ければ短いほど、箱庭の内容には誤差が生じる。思考を重ねるにつれ、その誤差は増幅していく――思考とはすなわち、箱庭を見て箱庭を作る作業だから。

 

日記という、短いスパンで粗雑な箱庭を量産する作業は、加速度的に思考をゆがませる。だから正確な思考のためには、書くのを我慢しなければならない。日記などという習慣はさっさとやめて、必要なときにだけ書くべきだ……

 

……とも、私は思わない。思想に正しい姿などないから、ゆがみという概念もないのだ。誤差など定義されないのだから、箱庭など好きに作ればよい。

 

執筆中の言葉の展開に従った結果、思いもしない結論が出そうになってしまった。結局のところ、言葉の羅列から出てくる結論には、常に注意しておかなければならない、というのが今日の結論になる。