無知の無理の無視

知るという行為は不可逆だから、無知の価値は知にまさる。

 

例えば私は、いまの小学生の流行りを知らない。実のところ、むしろ知りたくない。流行りものはともすれば偶然目に入ってしまうから、むしろ時代遅れの方が貴重なステータスなのだ。

 

小学生と会うことがあっても、私は彼らの流行に合わせない。それどころか、無知を喧伝してまわらなければ気が済まないだろう。一人の少年として、私はポケモンを知らない大人が信じられなかった。だから私は知っている、鬼滅を知らない珍獣への純粋なまなざし、そのいかに甘美なることか!

 

知らない方が偉いものは他にもある。俳優の名前や、流行の曲。議員の汚職のニュース、やめたゲームのアップデート。たぶん人によっては、スポーツ選手なんかもそうだろう。シャットアウトが難しければ難しいほど、知らないことの希少価値は上がっていく。

 

さて、立派なステータスなのにもかかわらず、無知は簡単に装える。その俳優のドラマを見ていても、そのメロディーが耳に残っていても、構わず知らないと言ってしまえばよいのだ。実のところ、これは嘘つきですらない――知と無知の間に広がる無限のグラデーションを、ただ全部無知と呼んでいるだけだ。

 

悲しいことに、無知のアピールには、それに関する会話が必要だ。話せば私は、知ってしまう。だから、無知を自慢すればするほどに、私は自慢に足る存在から遠ざかってしまう。

 

だがそれでも私は、無知を装い続けられる。何度答えを聞いても、私は構わず同じ質問を繰り返すのだろう。最高の状態で冷凍保存された、最高の無知のアピールを――

 

かいけつゾロリ、まだみんな読んでる?」