摩天楼に綱を聞く

難しい話は、一度おいていかれたら終わりだ。一時間のスライド、そのほんの一枚を見逃しただけで、もう残りはちんぷんかんぷんになる。話を追う方法はただ一つ、片時も集中を緩めず、一言も聞き逃さないことだ。

 

だが人の思考は気まぐれなもので、すぐに明後日の方向に飛んで行ってしまう。気を付けていてもふと、無関係な思いが私の頭を吹き抜ける。そして、自分を揺らす風に気づいたころには、もう手遅れだ。

 

仕事の問題、人生の悩み、はたまた今日の夕食の候補。頭の片隅で、いたずらな思考の源流は、常に私を虚無へと陥れる機会を伺っている。話を聞くのは、摩天楼を繋ぐ綱を渡るのにも等しい――どこから吹いてくるかも分からない風に、一度でもバランスを崩したら、終わり。

 

ここまで理不尽ともなると、悪いのはむしろ話し手であるようにも思える。ビルには綱ではなく、橋を架けろ。人は聞き逃すものだから、聞き逃されることを前提に話せ。ほら、テレビ番組は途中からでも分かるじゃないか。

  

橋を架ける意識は、話し手にはおそらく必要だ。そして同時に、理不尽としても襲い掛かる。丈夫な橋を架けるのは大変だ。どこを聞き逃しても分かるだなんて、無理に決まってるだろ! 甘えるな!!

 

話し手と聞き手、両者が最善を尽くしてなお、伝わらない内容はある。人が一方的に話して伝える、そのこと自体に無理があるのだ。

 

ではせめて、書き手としては。読み返せる媒体を扱うものとしては。

一度読めばわかる文章を書きたいものである。

スピーチとは違って文章は、読み手を無視して勝手に進んだりはしないのだ。