文体の書き分け

複数視点の一人称で物語を進める以上、現在の視点人物が誰なのかは常に明確にしておかなければならない。これまでは、一人称を用いて視点を区別してきた。「私」「アタシ」の別において誰の物語かがわかる、そういう算段である。

 

視点を特定するという最低限の目的は、この手法で達成されている。物語において人物は何らかの行動をするから、一人称が現れないということはなかなかあるまい。だがこれはあくまで最低限に過ぎない。世界を見る視点を変える以上、世界の色もまた変わるべきだからだ。

 

世界の色を変える最も有効な表現は、文体を変えることだ。自信を以て世界を見るキャラクターならば、地の文の端々に自信をちりばめればよい。不安を以て世界を見るならば、その逆に、世界そのものを暗くしてやればよい。

 

俺は短絡的、なら一文を短く。

わたくしがたしなみある淑女でございましたら、ひらがなとですます調がよろしいと思いますわ。

小生が衒学の気障りな垂れ流しを生業とするところの所謂知識人であるならば、高慢かつ迂遠な修飾語を一貫して並べ立てるのが適切と思われる。

 

さて、キャラクターに世界の見方があるのと同様、作者にも世界の見方がある。この日記の文体がすべて似通っているのは、筆者の私が世界をそう見るからだ。すなわち、文体を分けるには、普段は書かない文体を書く必要がある。

 

では、その方法は。例えば、自信に満ちた目で見た世界を表す文章は。出来上がった文章の中に、私は自信を感じ取れる。なら簡単だ。真似て、盗め。

 

すべてを確信しろ。未来を語れ。ありうべき最大の成功を、常に想像しろ。やることが分かった以上、私はもう文体の力を手に入れたに等しい。世の中は発展を続けている、そして私のペースはそれを上回るのだ!

 

文章は、思いもしなかった方向に進んでいる。これこそ、文体がなせる奇跡だ。自信家の文体で書く、それだけで自信家のキャラクターが動き出す。もはや文体は制約ではない。私の中に眠っていた想像力を呼び覚ましてくれる、大切な仲間だ。文体の力を自在に操り、何人ものキャラクターを同時に内面化する、そんな私には向かうところ敵などないのだ!