設定の膨大さ

言語化は、先へ進むための良い手段だ。世の中に、他人に、あるいは自分の心に渦巻く感情に悶々としても、言葉にすれば納得できる。

 

もちろん、自分を納得させるだけの言語化は簡単ではない。自分自身の欺瞞に一番敏感なのは自分自身だ。だからこそ、物事をよく表す言葉には力がある。

 

しかし、言葉と現実は別物だ。現実には言葉の羅列よりはるかに大きい情報量があり、言葉はそのすべてを表せない。どんな素晴らしい言葉も、あくまで現実の近似に、記号化に過ぎない。だから我々にできるのは、あくまで近似の精度を高めることだ。

 

近似精度を高めるための最も簡単な手段として、文章を長くすることが挙げられる。現実が複雑すぎるなら、言葉も複雑にしてしまえばよい。文章は簡潔なほど良い、だがそれは内容を保つ場合のみだ。長文でないと表せない内容によって、長い文章は正当化される。

 

よい長編はおそらく、その点をクリアしている。言葉だけで世界を表し、にもかかわらずその世界が実在するように錯覚させる技術。その裏には、そうさせるだけの膨大な内容が、すなわち設定がある。

 

まだ見ぬ世界を詳細に設定するのは、現実を詳細に観察するよりはるかに難しい。数十万字の文章にできるだけの設定を考えるのは、めまいのする作業だ。だが、やらなければならない。設定を積み上げ積み上げ、振り返った時にようやくことの大きさに気づく、その瞬間を私は楽しみにしている。