著者への言及とリスペクト文化

ことアカデミアにおいて、仕事が誰の手によるかは重要とされる。論文情報には、必ず最初に著者名が含まれる。それどころか、『フォン・ノイマンの 1947 年論文』のように、論文への言及がタイトルを含まないことすら普通である。

 

創作についても同じことが言える。『罪と罰』を読むことを、我々は「ドストエフスキーを読む」と表現する。作品には著者が色濃く出る都合か、著者というメタ情報は、作品の方向性を示す優秀なアイコンとして機能している。

 

この手の著者の重視は、しばしば「リスペクト」と呼ばれる。仕事そのものを尊敬するのならば、それを生むに至った著者の偉大な努力と深遠な洞察をも同時に尊敬するはずだ、というロジックである。だが、著者情報を切り離して仕事そのものを評価することも、また可能な態度である。

 

眺める世界を変えてみよう。カードゲームの世界においては、デッキの作者はあまり重視されない。大会の入賞リストをそのままコピーして使っても誰も怒らないし、それで勝手に別の大会に出てしまってもよい (アカデミアでやったら大問題だ!)。一部の独創的なデッキビルダーのものを除き、作者名がデッキの方向性を示すことは稀だ――似たリストの個別のチューンを区別するための純粋な識別子として、作者名が現れることはあるが。

 

私はカードゲーマーのこの態度を、リスペクトに欠けるとは思わない。アカデミアでは当然に成立する論理、「最初に考えた人には相応の栄誉が与えられるべきだ」という理念は、単に普遍的なものではないというだけだ。「後から同じことをやった人が評価されてたらどう思う?」という、引用の重要性の観念を押し付けるための誘導尋問は、成立しない世界もある。

 

とはいえ、リスペクトに対して相対的であることと、実際にリスペクトを否定して回ることとは違う。郷に入っては郷に従うべきだ。幸い、リスペクトを内面化せずとも、論文の引用の作法を覚えることはできる。著者の努力の偉大さや洞察の深遠さとは関係なく、ただ粛々と正しい言及を繰り返していこうと思う次第である。