すべての箇所に情報量を

サイドストーリーが完結した。「前編」「中編」というタイトルからも分かる通り、当初の予定では二~三話になる予定だった。

 

だがいかにも、現実には七話にまで伸び、「後編④」などという不可解なタイトルが生まれた。当たり前のことを痛感した次第である――物語とは書きながら進んでいくものだから、長さは事前には見積もれない。今後タイトルは「第何話」で統一しよう。

 

それはさておき、初期よりは文章が小説らしくなってきたように感じる。ただの自惚れかもしれないが、とりあえず、情景描写において、新たに気を付けるようになったことが一つだけある。それは、文のすべての部分に情報量を与えることだ。

 

例として、音に関する情景描写を考えてみよう。「子供の声が聞こえる」、例えばこの文に詩的な修飾を施すとき、これまで私は各単語の修辞に集中してきた。「興奮した子供の金切り声が砂浜に聞こえる」、こういうわけだ。

 

「興奮した子供の金切り声」、この部分は良いだろう。だが述語「砂浜に聞こえる」、これは冗長だ――「聞こえる」のは、「声」と言った時点で確定している。述語「聞こえる」は、ただ述語の枠を埋めるためだけの形式にすぎない。

 

ではどうするか。「聞こえる」をやめることだ。

 

「興奮した子供の金切り声が、青空と白波の間に消えた」、こんなふうに。

 

特に述語に、この言い換えは有効である。明確な対象を表す名詞と違い、述語の動詞や形容詞の意味は曖昧だ。そのくせ、完全な文には、述語はかならず必要ときている。体言止めという話法が成立する理由、それは述語が意味上の働きを持たないからだ。

 

だからこそ、述語には何を書いてもよいことになる。聴覚の表現に視覚的表現を。個人の感覚に大きく依存する表現を。別に通じなくて構わないのだ――情景描写など、所詮雰囲気づくりに過ぎないのだから。