第七話

アタシの登攀は、とっても順調だった。さっきはちょっと足場が崩れたけれど、むしろ逆に、これならアタシは絶対登れる、と思った。あれくらいは訓練カリキュラムの範囲内だし、アタシは真面目に訓練を積んできたんだから。

 

一番の懸念事項は、登る前にすでに解決していた。一か月前、降りてくる予定の北東の壁の下見に行ったとき。偶然出会った女の子が、すごい機械でこの壁を見せてくれた。その女の子は明らかに運動不足だったけど、代わりにアタシが見たこともない機械についてたくさん知っていた。

 

どの機械もすごくて、どれが一番すごいのかは全然わからなかった。けど、その子が、あの謎の筒を特別に感じていることは分かった。だから、その筒が一番すごいのだとアタシは判断した。

 

そして思った通り、その筒はすごかった。壁を細かく見られると聞いて、アタシはずっと気になっていたことを確認できると思った。壁の足場は、ちゃんと上まで続いているのだろうか? 途中から、きれいさっぱりひび割れがなくなってしまう、なんてことにはなっていないだろうか? これまでに誰も成功していない理由は、ひょっとして足場がなくなるからなのではないか、とアタシは疑っていた。

 

続いていなかったら、どうしよう。そう思ったが、見る限り、足場はずっと続いていた。だからアタシは、もう一つの懸念事項を確認することにした。北東の壁。アタシは、ちゃんと帰ってこられるかしら?

 

そして、見る限り、それも大丈夫そうだった。私はウキウキして、いつもより速く走って帰った。そして、そういえばあの子の名前を聞くのを忘れていた、と気づいた。

 

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てっぺんは目前だった。偉業へと至るルートは完全に見えていた――どの割れ目にどの足をかければいいのか、全部わかった。

 

右手を外側へ。右足を上へ、左手を上へ。右手を戻して、左足で足場を蹴る。偉業への期待に、胸の鼓動が速くなるのを感じた。

 

天気も、全く問題なかった。雲は薄く、北側には青空も見えた。アタシの登攀を止めるものは何もない。右手、左手。アタシが登り切る瞬間を、あの子はちゃんと見てくれているかしら。

 

突如上の方で音がして、左肩に衝撃を感じた。「痛っ!」アタシは叫ぶと、とっさに左手を離して体をよじり、右手で割れ目にぶら下がった。どうやら何かが当たったようで、右手と同じ割れ目に左手をかけようとすると、肩がずきりと痛んだ。幸い折れてはいないようだったが、あまり負荷をかけられないのは明白だった。

 

アタシは左手を手近なひび割れにかけ、極力体重がかからないようにした。上を見ると、壁の一部が崩れていた。どうやら、肩に当たったのは壁のこの部分のようだ。アタシは、さっきまで想定していたルートは使えなくなっていることに気づいた。素早く左右を見渡すと、アタシは左側に別のルートを見つけた。

 

肩をかばいながら左上に進むと、アタシは腰に違和感を覚えた。見ると、腰に提げていたポーチが壊れていた。普段は緊急用の道具を入れるポーチだが、落ちたら終わりの登攀の日は、代わりに何か好きなものを入れるのが慣例だった。

 

アタシは、あの子にもらったカメラを入れていた。上についたら向こう側を写してくると約束していたが、このぶんだと、もうダメだろう。アタシは小声で「ごめん」とつぶやくと、また進み始めた。

 

再び轟音を感じ、そして今度はよけることができた。右手一本でぶら下がるアタシの横を、壁の破片が落ちていった。ひとまず、安心。だが、左上を見ると、また予定のルートが壊れていた。

 

そして今度は、代わりのルートは見つからなかった。

 

――ウソ。

 

突如強風が吹き、あたりの気温が下がった。左肩から染み出た血が、足に当たるのを感じた。強風にアタシは落とされそうになったが、どうにか壁にしがみついた。アタシは祈るように、あたりを再度見渡した。

 

一応少し戻れば右上に足場は続いていたが、左肩を怪我したこの状況で、すこしでも壁を降りられるとは思わなかった。アタシは全身から血の気が引くのを感じた。

 

――これで終わり? こんなことで?

――死ぬのなら、一瞬だと思っていた。掴み損ねて、まっさかさま。

 

まっさかさま、ドスン、終わり。それなら納得できた――まっとうな登攀者の死に様だ。でも、こんな責め苦のような終わり方は、想像していなかった。アタシはぶら下がったまま、予想外の終わりを噛みしめていた。

 

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右手の感覚が薄れてきた。どれくらいの時がたっただろうか。永遠にも感じたけど、右手の疲労度から言って、きっとこれは数分だった。

 

終わりの感覚より右手の疲労の方が強くなり、アタシはどうにかこの疲労をやり過ごせる方法を探した。見ると、少し左下に、身体を収められるサイズのひび割れがあった。

 

痛む左手で無理やり身体を支えながら、アタシはひび割れに身体を収めた。ここからどうやって出るのかはわからなかったが、ひとまず両手を休めることはできた。

 

眼下には、アタシたちの街が広がっていた。真下には訓練施設の緑の屋根が見えた。街の中心に行くにしたがって、建物はより高く、より密になっていった。遠くに見える工場からは、白い煙がもくもくと上がっていた。

 

これまでに見たことがないほどの、美しい景色だった。上から見たら、街はこんなに綺麗なんだ。最期に見るのがこれならいいのかもしれない、とアタシは本気で思い始めた。

 

アタシは窓に鉄格子のついた家を探そうとした。アタシの生家を。でも、ここは窓の鉄格子が見えるような高さではなかった。きっと向こうからも、こちらは見えないだろう。

 

アタシはあの子のことを思い出した。あの子なら、あの筒なら、アタシが見えるかもしれない。アタシはあの子のいる方向を向くと、疲れた右手を振って見せた。

 

ちゃんと、見ててよね。

アタシの、終わりを。

 

アタシはぼんやりと、街を眺めた。美しい景色、そして街がこんなにも美しいとは誰も知らない。終わりを受け入れて、むしろアタシは幸せだった。

 

うん。しあわせ。

しあわせ。

 

突如三度目の轟音が鳴り響き、アタシは揺れを感じた。アタシは何を探すでもなく、割れ目の外を見た。

 

真上に、新たな割れ目ができていた。にわかに、アタシはアタシが登攀者だと思いだした。これなら、簡単に登れる。アタシはすぐに右手をかけるとそのまま登り、ついに壁の上に顔を出した。