共感要求と自己言及

悲惨なニュースには必ず、同情の声が数多く寄せられる。「こんな事件は二度と起こらないで欲しい」「どうか無事であってほしい」……。語彙力巧みに繰り広げられる同情の嵐は、さながらそういう競技のようでもある。

 

一部の狡猾な策士を除いて、おそらく彼らは、本当に悲しみを覚えている。彼らは慣れを知らない――幼稚園児の列にトラックが突っ込んだのが一度や二度ではないとしても、彼らは毎回新鮮な悲しみを表明する。彼らは悲しみを神聖な感情だと思っているから、同情のオウム返し以外の返答は認められない。

 

こんな皮肉を言っている時点で最早言うまでもないが、私は彼らが嫌いだ。悲しみの否定がタブーなのをいいことに、他人に共感を要求するんじゃない。彼らの悲しみなど知ったことではないし、一度見た悲しみならなおさらだ。「やるせない気持ちでいっぱいです」――だからどうした?

 

さて、一度冷静に見返せば、これまでの議論は美しいほどに自己言及的だと気づくだろう。私は彼らが嫌いだ。彼らが悲しみを表明するのはいつものことなのに、私は決して慣れずに、いつまでも彼らへの嫌悪を語っている。あろうことか、私がこんなものを書いているのは、私の生きづらさに共感して欲しいからだ!

 

抽象化癖の悲しき宿命か、私の批判はそのまま私に降りかかってくる。私は彼らの同類だと認めたくはないが、えてして同族嫌悪とはそういうものだ。私は人間の一貫性を信じていないから、二枚舌が明るみに出たところで、私が私を嫌いになるわけではない。彼らを正当に愛するべきだ、と考え直すこともない。ただ、なにかひとつでも、彼らと差別化できる態度があれば、と願うのみである。