悪意への憧れ

誰かの悪意を目にしたとき、ある種の人は、その誰かの不遇さに原因を求める。やれ虐待家庭で育った、やれ就職に失敗した、そういった理由を見出そうとする。おそらく彼らは、自分の論理で説明不可能な意図を受け入れられないのだろう。恨みに溺れて周りの見えなくなった人間の末路、すべての悪意はそういうものだと彼らは思っている。

 

残念なことに、その推論は大方間違っていないのだろう。この手の悪意は、単なる偏執の暴走は、狂気と呼べるほどに美しくはない。確かに正気ではないが、単に理性的でないだけだ。

 

だから私は、完全に理性的な悪意に魅力を感じる。陳腐な説明の成立しない、狂気と、サイコパスと呼んでよい悪意に。一切の負い目を感じず、一切の正当化を必要とせず、ただ執行される悪意。むしろそれは悪意ですらないのかもしれない――当人に悪気はないからだ。

 

どうやら私の好みはそこそこ一般的なようで、ミステリーにも狂気の犯人は時折登場する。その手の犯人には根本的な何かが欠けているように思えるが、何が欠けているのかさっぱりわからない。わからないということは、おそらく彼らは完全に正気なのだ。我々が見ている集団幻覚から、彼らだけは自由だ。

 

結局私は、未知のものに憧れているだけだろう。私のものとも世間一般のものとも異なる思考を、私は単に狂気と呼んでいるに過ぎない。だからおそらく、理解は可能なのだ。理解してしまえばもはや狂気ではなくなってしまうとしても、私は、未知なる思考を理解したいと思っている。