活動と盲目のトレードオフ

およそ活動家というのは盲目で、自分の正義を絶対だと考えている。異なる論理を、彼らは意図して受け入れないのではなく、単に理解できない。彼らの辞書に内省という言葉はなく、「こう思う」と「こうである」は同じ意味だ。

 

彼らはトレードオフを理解しない。彼らのユートピアではすべての問題は解決し、つまるところ、犠牲などなにもないのだ。彼らは、自分の正義の価値を他の正義と比較しない。正義はひとつしかないからだ。すべての予算は我々に属するべきだ、すべての人間は我々の味方であるべきだ。

 

それでも、いや、だからこそ、世の中を動かすのは彼らの力だ。人は明確な解答を求める――からなのかは定かではないが、とにかく、自らを疑うことを知らない彼らの推進力には目を見張るものがある。ブレーキがなければより遠くまで行けるという馬鹿な理由で、彼らは成功する。

 

私は、盲目な成功者よりも明晰な負け組であることを潔しとして生きてきた。何者かになるには馬鹿な必要があるなら、私は何者にもならなくてよい。私は彼らの主張に同調しない、主張そのものではなく彼らの絶対性のために。私はどこへも行けずに一生を終えるだろう、それでも、ブレーキを壊すよりはマシだ。

 

これは痩せ我慢だろうか? ただアクセルを踏む勇気がないことの言い訳だろうか? まだ見ぬ景色を過小評価しているだろうか? そうかもしれない。でも私は、この場所の景色も結構好きなのだ。