蓄えた抽象の使い方

科学的思考法には少なからず、具体を抽象へと昇華する試みとしての側面がある。複雑な現実から単純な本質を抜き出すボトムアップな思考法を、私は訓練し続けてきた。つまるところ、この日記もそうだ。

 

抽象的理解が一度成立すれば、抽象を抽象のまま扱えるようになる。抽象と抽象を組合わせて新たな抽象を創り出す営みは、科学の発展と呼ばれるものの大部分を占める。

 

より抽象的な、より本質的な概念は、より多くの具体を扱える。しばしば、これが抽象の発展の意義とされる。具体と具体を具体のまま接続しても決して到達できない境地へ、抽象を経由して到達できるのだと。抽象の意義としてそれはおそらく間違いでないが、新たな具体を導くための方法論としてはいささか不足しているように思える。

 

確かに抽象は具体を導くためのよい助けとなるが、具体は抽象からのトップダウンな思考によって導かれるものではない。文章でも作問でも、およそ創作と呼べるものに手を出してみれば気づくことがある。特定の知識を活用した何かを作りたい、というモチベーションでは、碌なものが完成しないのだ。

 

本質を表現する具体例を導くのは、具体例から本質を抽出するよりはるかに難しい。私はこの日記で、自らの感情を抽象化してきた。物語を読めば、その中に流れる思想を言語化しようと試みた。だが、いくら抽象化の経験を積んでも、自らの思想をよく表現する物語は、一向に創れる気がしない。

 

結局のところ、物語はボトムアップに創るしかないのだろう。ボトムアップの思考の行きつく先として抽象のストックは有用だから、確かに抽象も大事だ。でもそれはもう十分にやっているから、本当は、こんな日記を続けるよりほかにやるべきことがある。