本分に向き合うこと

思い返せば、これまで、本分には常に反抗の意を示してきた。学生の本分とはすなわち学校の勉強であり、そして受験勉強である。小学六年生の私は、放課後の遊びを意地でもやめなかった。中学では、定期試験を早々と見限った。高校三年生の私は、受験勉強をやりすぎないようにと吹聴して回った。教養課程の必修の授業には行かず、趣味だけのために講義を選んだ。専門の授業にも行かず、代わりに教養課程の講義に潜った。

 

本分の要求は、いつも拍子抜けするほど簡単なものだ。受験に受かればよい、単位が取れればよい。本分は、やれ真摯さだ、やれ日々の努力だ、といい子ぶった態度を要求してくるが、それを査定する手段を持ち合わせていない。だから結局、不真面目でもどうにかなるのだ。

 

さて、博士課程院生の本分は研究だ。我々には、学問の発展と自己修練のために日夜努力を惜しまぬ崇高な義務がある。言い換えるなら、博士号が取れる程度に研究をして、あとは別の何かにうつつを抜かせばよい。

 

……とは、あまりならない。

 

原因は、実績が青天井なことにある。一定の点数を取ればあとは無関係な大学受験と違い、論文は書けば書くほど良いのだ。かくして、最低限を求める態度は否定され、たゆまぬ努力という本分の要請は正当化される。

 

しかし私は、本分に真摯に立ち向かう態度を知らない。学部生の頃、私は研究に真剣でいられた。学部生の本分は研究ではないからだ。修士課程でも、ある程度真剣でいられた。まともな人間は就職活動をするからだ。さて、これからはどうだろうか?

 

答えは、三年後の私のみぞ知る。真摯でいるならその理由を、斜に構えるなら他にやることを、こうして文章を書くことで見つけていければ幸いである。