恍惚への希求

夢の中でのみ、私は、純粋な私でいられる。

 

夢は曖昧だ。非論理的だ。支離滅裂だ。景観の詳細はぼやけていて、私はそれを気にしない。通常ではありえない場所に、通常ではありえない人がいる。物理法則は簡単に破られる。夢の中の順接は、起きてから思い返せば、全く順接ではない。

 

毎日のように私は夢を見るが、決して夢に退屈することはない。一期一会の支離滅裂さが面白いからではない。退屈とは感情を一般化する能力であって、夢の中の私はその能力を持たないからだ。

 

幸福な夢の中の私は、それが幸福であることを知らない。私はただ幸福であり、それを客観視するすべを持たない。曖昧で、非論理的で、支離滅裂なエクスタシー。この恍惚が、現実世界で成立するなんてことがあるだろうか?

 

この恍惚が存在しない世界に、無垢な私が存在しない世界に、

価値なんてあるだろうか?

 

直接体験していないことをも知っておく義務のあるこの世の中で、私は、知識をもって経験に代えるすべを身につけてきた。歴史を学ぶことをもってその時代に生き、地理を学ぶことをもってその場所に住んできた。私が持っている知識は、私の経験。私が獲得できると知っている知識は、私が獲得した知識。私はすべてを経験した、だから世の中にやり残したことはない。

 

だから、もし、私が余生を夢の世界で送れるのならば。

具体性を完全に捨ててしまえるのならば。

私は喜んでそうするだろう。

どの世界も、結局、私の認識に過ぎないからだ。