博愛を受け入れること

人のやさしさに、人は時折不安を覚える。

 

もちろん、しばしばやさしさには裏がある。旅先で過剰なまでに親切な人間に出会ったら、その人は高確率でぼったくりだ。人を騙すために最も重要なのは、自らを相手に信頼させることだからだ。

 

だが不安の正体は、騙されることへの心配ではない。私はむしろ、親切な相手には裏があってほしいと願う。裏があってくれたら、私は安心できるからだ。彼らは明確な目的に従って行動していた、それゆえ親切なふりをしていた。簡単な論理だ。裏があるのならば、彼らの行動原理は説明可能だ。

 

不安の正体は、むしろ、本当に裏がないかもしれないという疑念だ。相手が詐欺師であるという安心できる結論が、決して訪れないかもしれない末恐ろしさだ。説明不能な、不気味な博愛主義者を、私は相手にしたくはない。

 

……はずだ。

……はずだが。

 

 

 実際には、不気味さを差し置いて、私は博愛を受け入れることがある。原理はまったくわからないけれど、それでもいいのだと。果たしてそれでいいのだろうか? 

 

私は完全に説明可能なペテン師でありたいと願ってきた。映画の悪役の明確な悪意を応援し、それが曖昧な正義に打ち砕かれるのを嫌ってきた。良心とは無縁な、自己中心主義の非情な執行者。私はそうなりきれないと知っているが、少なくとも、私は彼らに憧れてきた。博愛を受容して、非合理性を受容して、私は私でいられるだろうか?

 

いや、いいのだ。つまるところ、この受容は説明可能なのだ。やさしさがタダで受け取れるのならば、合理主義の観点から、もらっておいたほうが良い。