冷笑をやめてみること

こうして一週間ほど書いてきたが、文章として成立するテーマは思ったより少ない。原因はおそらく、私の文章の構造だ。非道徳的な前提を、非道徳的なまま発展させる短文。このような短文に可能なのは、現状を冷笑的に語ることだけだ。

 

私は冷笑主義者だ。冷笑をこよなく愛し、冷笑を愛することをまた冷笑する。だからこそ、私は冷笑にも限界があると知っている。私はすべての面で非道徳的なわけではない。道徳は、確かに非道徳より価値が薄い、しかし語ってはならないわけではないのだ。

 

冷笑の文脈で道徳を語ることは一応は可能だが、非常に回りくどい作業が必要になる。冷笑主義者として、道徳の側に下ることは敗北でなければならない、だから非道徳的な正義が必要になる。非道徳的な正義の由来は道徳的な悪であり、道徳が悪をなすという説明が必要だ。道徳を語るために、まずその否定から説明を始めなければならないのだ。

 

私は私を冷笑するから、私がそういう方法で捉えていない道徳があると知っている。世の中すべてを否定するわけにはいかない。そうだ、たまには素直になってみてもいいじゃないか。冷笑の魅力は、それが真実らしく見えることにある。つまるところ、無理のある冷笑は格好悪いのだ。