意味という茶番

理論研究は、無意味だ。役立たずだ。

 

無意味さに反して、理論研究の地位は確保されている。既得権益か、それとも詭弁の賜物か。どちらにせよ、世の中はバグっている。

 

バグは希望だ。無意味な私たちの聖域だ。私たちに、意味は不要だ。バグが守ってくれている限り、私たちは自由だ。

 

人は訊ねる。

それって何の役に立つの。

きわめて全うな問い。バグがバグである限り、答える必要のない問い。

 

役に立たないのなら、結局はゼロがかけられるのなら。

そうだ、なんだっていいのだ。

 

 

 

 

それじゃダメだ。

しかし、その声は。

あろうことか、バグの内部から聞こえてくる。無意味に現を抜かす、その張本人から。

 

バグの中の世界。無意味という希望だったはずの世界。その世界はむしろ、無意味と無意味の違いを必死で主張している。ゼロ引くゼロはゼロでないと論じ続けている。

 

そうだ、世の中はバグっている。でもそれは、私が期待したバグり方ではなかった。

 

理論屋はこう考える。実際に役に立つか……保留。結局ゼロがかけられる……目をつぶろう。役に立ちそうな気がするか、役に立つ理由を創り出せるかを考えるのだ。有意義かけるゼロイコールゼロ。無意味かけるゼロイコールゼロ。さあ、ここでゼロを無視してみよう。有意義な研究のなんと素晴らしいことか!

 

残念ながら私には、この茶番に耐えきれる自信がない。