誠実であるということ

「誠実な態度とは、一切の主義を信じないことだ。

 

世の中は矛盾している。正義と正義はぶつかり合う。民主主義と自由主義。人権と人権。両者に論理的正当性があり、すなわち論理的正当性など無意味だ。

 

扱えないものは、扱うべきではない。論理が無意味なら、考えても無駄だ。世の中に正しいことなどない。善悪や義務を否定する考え方を、私はそうやって身につけてきた。

 

論理が役に立たない以上、信頼できるのは自分の感情だけだ。すべてを好き嫌いで判断し、正義という幻想から解放されよう。世の中に正義らしきものが必要なことは確かだが、それは論理を信じている奴らの話だ。純粋な奴らの、生きるのがヘタクソな奴らの。

 

そうやって全てから目を背けるのは簡単だ。そして、簡単ということは良いということだ。ナントカ主義の詭弁をいかに弄そうとも、誠実さは私の側にある。単純かつ強力な自己弁護。正義を無視するために、欺瞞に塗れる必要はない――ただ誠実でありさえすればよいのだ! そうだ、開き直れ! 開き直り尽くせ!

 

 

 

 

さて、以上は否定されなければならない。この文章は紛れもなく私のものだが、私はそう認めたくはない。さて、どう否定したものか。

 

独善的だ?

そうだ。それで構わない。

 

イタい?

そうでもないね。私はこれを書いたのだよ。

 

なぜわざわざ、書く必要がある?

自己顕示欲は私の一要素だ。だから日記を始めたのではなかったのかな。

 

そうだ、否定などできないのだ。考えてみれば当たり前だ。私の内部からの批判を躱すための、単純かつ強力な体系。すべての論理を否定せよという主張を、論理で否定できるわけはない。すっかり慣れ切った考え方に、今更感情が反発するわけはない。

 

だがそれでも、これは否定されなければならないのだ。これが私だという事実は。私がこれを否定できないという事実は。

 

そうだ、他の誰かの台詞にしてしまおう。鍵括弧で囲んでしまおう。そんなことをしても仕方ないのは分かっている。だが少なくとも、私が無批判にこんなことを書く人間ではないことは表現できるはずだ……」