修士課程の卒業式があった。面倒だったので、式には行っていない。
卒業式とは本来、別れのための式典だ。当たり前の生活の終焉。日常を定義していたはずの友が、いない日常という矛盾。穴の開いた日々を無理にでも直視するために、この儀式はある。
だが、友と会わない日常の定義に、友は出てこない。私が喪う日常などなかった。正しい別れに形式は重要だが、形式的な別れに感慨はない。
だから私には式は必要なかった、既に別れていたから、わざわざ別れを言いに行く必要はなかった。ひとつの妥当な説明だ。
……しかし、では逆に。
……もし社会が元のままなら。
……もし私が、大学に通っていたら。
私は、別れを惜しんだだろうか?
答えは、分からない。
かけがえのない関係を大学で構築できたとは思わない。でも、何気ない会話を楽しめる関係を構築できた、とは思う。わからない。気づかないうちに清算していた別れの価値が。彼らが私のどれほどの部分を占めていたのかが。思い出せない。想像できないのだ。
でも、たぶん。
分からないということが。if の自分を想像できないということが。
別れたということなのだろう。
正しいルートは通らなかったけれど、私はたぶん、道の先にいる。