2022-07-01から1ヶ月間の記事一覧

勧悪懲善志向

わたしたちは小さい頃、きっとたくさんの物語を見せられたはずだ。そしてその多くは、典型的な勧善懲悪もののストーリーに従っていたはずだ。 たとえば幼少期、アンパンマンを観ずに育った子供はまずいないだろう。あれはまごうこと無き勧善懲悪で、アンパン…

風邪と気力と

外泊から帰ってきたら、風邪を引いたようで熱が出た。意味不明な量の汗をかきながら今、エディタに向かっている。 風邪とはなかなかに退屈なものだ。安静にしているのがいちばんと言って隙あらばわたしを寝かそうとしてくるが、それでもずっと寝ているわけに…

答えとしての物語

世の中のほとんどの問いには答えがない。答えの候補になるものはいつもいくらでも思い浮かぶけれど、そのどれにも悪いところがあって、その中に正解はありそうにない。あるいはどの答えにもそれなりの説得力があって、複数の納得できる説明を前に、わたした…

強い誰かを傷つける

誰かを傷つけて変えてしまうのに、そう大した工夫はいらないのかもしれない。 ひとを傷つけるための方法論が世の中にはたくさんある。誰かの人格を破壊し、死ぬまで続く歪みを残すための手段はきっと、精密にシステム化されている。ある意味でそれらは人間の…

傷をつける方法

ひとを傷つけるには果たして、どれだけの技術が必要になるのだろうか。 おそらく、一般的な答えはこうだ。ひとを傷つけるのは誰にでもできる行為で、技術なんかこれっぽっちも必要ない。ひとは至極簡単に取り返しもつかないほどにめちゃくちゃに壊されてしま…

ひとの気持ちを分かった上で

わたしたちはいろいろなことを日々、分かったり分からなかったりしている。ほとんどの場合それらは文字通り「分かった」「分からない」ということを意味していて、言い換えれば目の前にある何かを、みずからの持つ理解の体系の中に組み込めたかどうかが重視…

自由という正義

道徳には従ったほうがいいとされているのは、おそらく道徳という概念が、世の中のこまかな秩序を保つ役割を担っているからだろう。世の中にはたくさんのミクロな関係性があり、その多くは基本的に、明文化された規則と罰則では対処できない。そういう問題を…

道徳と独立の選択

ひとは全員が道徳的なわけではない。わたしたちは多かれ少なかれ背徳的なことをするし、その一部を仕方ないことだと受け入れている。受け入れないまでもあるいは葛藤を覚えながら、罪であると分かっているなんらかを犯している。 それが良いことなのか悪いこ…

魔法が科学になり、科学が魔法になるとき

フィクションの中の「科学」には、厳密な理論的詳細が設定されているわけではない。「科学」を語る際に作者は必ずしも詳細を設定しなければならないわけではないし、読者もそれは求めていない。架空の技術を語るという行為にはそれだけの寛容さが必要であっ…

「科学」と魔法の相違点 ③

創作の中で「科学」として扱われるものは、魔法と呼ばれるものとある面では同じで、ある面では異なる。それらが似通っている点としてもっとも主要なものは、それらがどちらも空想上の存在に過ぎないことだ。創作の世界の外側に住むわたしたちから見れば、創…

「科学」と魔法の相違点 ②

創作の中の「科学」がわたしたちの暮らす現実世界の中にあれば、それらはおそらく魔法として扱われるだろう。しかしながら創作の世界の住人たちにとって、それはまぎれもない科学の成果である。 では、創作の中ですら魔法と言われるものはなんだろう。ひとつ…

「科学」と魔法の相違点

現代科学が科学たるゆえんは、それが観測と論理の二本の柱にのみ支えられている点にある。観測はすべて定められた手続きに基づいて行われ、論理はやはり定められた演繹技術によって進められる。定められた手続きによる観測は再現性を保証し、そして演繹手法…

「科学」と魔法の同一性

サイエンス・フィクションとは読んで字のごとく、科学を題材にした創作のことだ。単なる舞台設定以上の役割を果たす科学的な設定が、その科学技術がなければまったく成立しなかったであろう物語を描き出す。主人公がいるかどうかは作品によるが、もし設定さ…

少年のリスク評価

小さい頃の怖いもの知らずのエピソードを挙げよと言われれば、わたしは小学校の修学旅行のことを思い出す。 ある晩わたしたちが泊まっていたのは、とあるホテルの一室だった。正確なことは覚えていないが部屋はたしか五階くらいにあって、窓から下を覗けば、…

単純な因果を求めて

文章による表現では、美しさのかなりの部分が論理性に基づいている。物語の主題とはたとえば主人公の心情や社会情勢なわけだが、そういうものにはかなりしっかりとした時系列的な因果関係が横たわっている。そしてそれらの因果を説明する手段は、論理以外の…

美文の出現位置

世の中の絵の多くは、わたしたちが鑑賞するために描かれている。古典的な宗教画もゲームの絵も、風景画もアニメの一コマもみな、見たひとの感情を動かすための表現だ。わざわざ絵を描くことによって伝えられる情報とはそうするだけの理由のある情報であり、…

遊びの新規性

たとえばきみが来週末、野球を見に行くのを楽しみにしていたとしよう。ルールにも選手にもきみはそれなりに詳しくて、贔屓のチームもあって、つまりは野球ファンと言えるくらいにはきみはよく注意してみている。きみは熱狂的とまでは言えないかもしれないけ…

美文の正体へ

美しさは、論理では説明できない。雄大な自然も荘厳な絵画も耳に心地よい音楽も、どれもなぜ美しいのかと聞かれれば答えに窮してしまう。わたしたちはそれらを理解できず、そして重要なのは理解しようと試みることではない。美しきものを鑑賞する正しい態度…

すべてが本分になる日

未就学児の本分は遊ぶことであり、小学生の本分は社会生活を学ぶことだ。中学生や高校生の本分は部活か勉強であり、学年が上がるごとにその義務が高まっていく。大学生の本分はひとによって違うが、基本的には四つのうちのひとつだ。すなわちよく言われるよ…

狂人への道筋

なにかの思想を語るという行為には、みずからの中でそれを反芻するという行為がかならずついて回る。ひとに教えることによって自分に技能が身につくという現象があるが、それは教えようと試みる行為によって、みずからの中の体系が再構築されるからだ。誰か…

面白さ以外のもの

陰謀論と公然の秘密は別物だが、それらを区別するためにはどうすればいいのだろうか。 一部の陰謀論は、そんなことを議論するまでもなく陰謀論だ。一番分かりやすい例は、最近なにかとネタにされがちなあいつ。ワクチンを打つと、5G に接続して、思考をどこ…

公然の秘密

公然の秘密と呼ばれるものが世の中にはいくつかある。誰もが真実だと知っているが、公式文書や報道によっては語られないことのことだ。語られない理由は大方、だれか影響力のあるひとや団体の都合がその内情に絡んでいるからで、彼らはそれをなるべく世間に…

全部ぶっ壊して、最初から作り直す

いろいろなところにボロが出て、修繕に追われ続けて、新しい機能などなにひとつ付け加えられない。なにがどうなっているのか分からなくなって、ほんの少しの作業にも、いちいち詳しいひとを引っ張り出さなければならない。すべてがめちゃくちゃなのになぜか…

神話の崩壊

わたしたちは今日、またひとつの神話の崩壊を目撃した。 それは間違いなく神話だった。こんなことは起こらないと誰もが思っていた。そのときになるまで、だれもそんな物語を信じていなかった。そしてなにより、なぜそれが起こらないのかについて、誰も明確な…

老人になった日には

歴史上、世代間対立とはいつの世にもあるものだ。双方が掲げる旗印の具体的な中身は時代背景によって違うとはいえ、とにかく若者と老人は、長い間つねに争い続けてきた。それなりの数の対立はおそらく若者側の勝利で終わり、それは自分たちが正しかったから…

教養と必要

最高の勉強とは何かと聞かれれば、なににも役立てる予定のない勉強のことだ、とわたしは答えるだろう。勉強それ自体の喜びとは新しい知識もしくはメタ知識を得ることそのものにあるわけで、それを純粋に楽しみたいのであれば、みずからの知的好奇心を満足さ…

赤の他人のとった賞

タイムラインがやけに盛り上がっているので、どうしたことかと思えば、どうやら今日はフィールズ賞の受賞者が発表される日だったそうだ。 言われてみれば、盛り上がるのは自然なことだ。わたしの非常に大雑把な理解ではフィールズ賞とはノーベル賞の数学版で…

恋愛小説と当事者意識

恋愛なるものは、物語のテーマとしておそらくもっとも普遍的なものだろう。 その理由を、ひとはこう説明する。物語の中では、登場人物の心が強く動かされなければならない。そして人間の心をもっとも強く動かすのが恋愛である以上、恋愛というテーマがポピュ…

物語にはない価値

物語の世界へと入り込んでゆくとき、わたしたちはその物語の中で、どのような立ち位置を占めているのだろうか。 主人公そのひと、ではおそらくない。わたし自身は物語に登場しないからだ。物語についての決定権は読者にはなく、たとえ主人公の感情に深く共感…

エモーションを読解する

小学生の頃、国語はわたしの苦手科目だった。 今思い返してみれば、その理由は明快だ。わたしには文章が読めていなかったのだ。文章というものは、それぞれの部分を明確な論理のもとにくみあわせてできるものだが、小学生の頃のわたしはまだ、そのことを理解…