2022-06-01から1ヶ月間の記事一覧

社会の楽しみ方、憎み方

興味を持つってことは、好きになるってことだ。 たとえばきみが、将棋に興味を持ったとしよう。そのとききみは、友人を募って一局交えてみるかもしれない。あるいは定跡や詰将棋の本を買って、こういう指し方があるのか、と情報収集をするかもしれない。きみ…

問題視を問題視する

世の中は問題で溢れかえっている。ひとくちに問題と言ってもその性質は多岐にわたっていて、共通項があるとすればおそらく、提起したひとが現状に満足していないという点だけだろう。不満の性質にもいろいろあって、たとえば現行の技術水準で解決できないな…

政治参加の規模感

政治に文句を言うことが正当なこととされてから、今日ではそれなりの日が経った。民主主義が興った年は場所によってまちまちだし、いまだかつて興ったことのない場所だってあるけれども、とにかくここ日本では、人間の一生分くらいのスケールの時間が経って…

すべてを勉強と呼んで

親とか先生とか上司とかそういう存在は、子供とか生徒とか部下に向かって、とにかく勉強をしろと言い続ける。そのお説教は彼らの、人生の先輩としての立場にある存在としての責務であって、かわいい後輩たちがどう思うかとは無関係に、世界はそういう風にな…

バタフライ・ワールド

わたしたち個々人にとって、世界のほとんどはなんの関係もないことだ。世界を比較的小さくすることについて人間は多大なる努力を費やし、実際にそれはある程度の成功を収めたわけだが、それでも現代のわたしたちにとって、地球の裏側はまだ真に身近ではない…

「オタク」からの脱却

片方はもう死語かもしれないが、わたしが多感な時期を過ごした社会は「ウェイ」と「オタク」の対立の中にあった。「ウェイ」というのは恋人がいたり、友達とカラオケに行ったり、親に連れられて以外の理由で服屋に行くことがあったり、とにかくそういう連中…

人生イージーモード

人生をゲームに喩えるならば、わたしのはまあイージーモードだろう。生まれた家庭は中流を自称していて、中流とは中央値を意味しないというあまり知られていない社会的基準に基づけば、我が家の自己評価はおそらく客観的に正しい。わたしは同じ家で育ち、家…

滅びは忘れて、踊りましょうか

滅亡へと下ってゆく船にわたしたちは乗っている。周囲に風はなく、川面には波もなく、そして視界の先に滝はない。川の流れはゆっくりだから、わたしたち乗組員が岸辺を一瞥したくらいでは、船が動いていることには気づかない。乗り上げるような岩礁は川底に…

議論の嘘の拒否権は

世の中のほとんどの議論は、まったく自由な議論ではない。国会の演説でも企業の商談でもなんでもそうだと思うが、議論とはその場にいる当人がみな納得すればよいといった性質のものではない。参加者とは組織の先兵にすぎない――各々はそれぞれ守るべき主張を…

議論のなかでの人格、議論のそとでの人格

建設的な議論とは自由な議論のことだが、現実の議論のおおくはまったく自由ではない。ほとんどの議論は互いの有利不利を決めるために行われるものであり、そのかなりの割合で、互いの後ろには無視できない勢力がついている。議論の矢面に立つ人間の目標の大…

リアリズムのロマンチシズム

リアリズムなる考え方には結構な魅力が宿っているようで、リアリストを自称するひとは世の中に多い。それはこと教養層、すなわち自分のことを比較的賢いと認識している層に特に多く見られる習性で、彼らはこの世の中を、絶望的な合理主義の支配する場所だと…

建設的な議論、という宗教

建設的な議論には勝ち負けなどないのだ、というのがわたしたちの一般的な見解である。本来的には議論とはお互いの意見をすり合わせ、自分になかった考え方を取り入れて新たな見解を築くためにおこなう行為であって、けっして相手を打ち負かして、自分の言う…

空を飛んだ夢

夢の中で、わたしは空を飛べる。 飛べると言っても、そう高いところへと上がれるわけではない。地面から浮き上がれるのは、どんなにいっても二メートルやそこらだ。距離だって長く飛べるわけではなく、せいぜい数十メートルの直線を、地面に触れずに進めるだ…

世界よ、SF になってはくれないか

世界には、さっさとサイエンス・フィクションになっていただきたいものだ。 SF の中の主人公は、みな新しい時代のありかたにさまざまな想像をめぐらせている。それは間近に迫った未来への溢れる希望かもしれないし、巨大な破滅的終焉とわたしたちとを隔てて…

意見の一貫性 ②

意見を持つという行為、その具体性のなかへと入っていこう。 いくつかの社会問題について、わたしたちは自分なりの賛否を決める。すべてのものごとに関して決めてやる必要こそないが、いくつかについては決める。そうして理想的には、参政権を行使する――だれ…

意見の一貫性 ①?

なんらかの問題に関する意見を表明するとき、ひとはたいてい、ただその問題のことだけを考えているわけではない。ことばに出す意見にはつねに論理が必要であり、意見を示すとはすなわち、自分の意見を正当なものとみなすためのそれなりの論理を構築するいと…

罪状:思考

世の中のほとんどすべての問いに明確な正解はない。幾万もの哲学者が、あるいは幾億もの在野の哲学者が考えてきた問いなどいくらでもあるが、その中に解決した問いと言うものはほとんどないと言っていいだろう。解決不能な問いに立ち向かっては玉砕していく…

反復練習とその限界 ②

スタートラインにおいて、わたしたちの理解は浅い。ひととおり教科書を読み、書かれている概念の存在を知り、だが具体的な問題を解くことになると、手は自然にはまったく動かない。わたしたちが解くのは基礎的な問題だ、すくなくともそう思えるような問題だ…

反復練習とその限界 ①

だれかと技能を競い合う、という道に身を置き続けて生きてきたこの半生において、みずからを成長させる手段はつねに、反復練習であった。 考えてみれば、それは当たり前のことだ。だれかと本気で競い合うひとは少なくとも、その道に秀でていなければならない…

執筆速度

文章執筆における原則のひとつに、文章は削るほど素晴らしくなる、というものがある。無駄な文を書かぬようにいくら注意したところで、最初の原稿というものはどうしようもない寄り道を含んでいるものだから、シェイプアップするにはあとから見返すしかない…

ニュースピークへの手記 ②

《ビッグ・エディター》は社会に興味を持たない。反体制派を弾圧することも、表現を検閲することも、真理を捻じ曲げることもしない。それなのに《ビッグ・エディター》は、こうして九百年間の停滞をもたらした。言葉遣いの誤りを粛々と指摘する、たったそれ…

ニュースピークへの手記 ①

もしも言語が、その黎明期のように変化する生き物であり続けていてくれたのならば。 《ビッグ・エディター》が少しでも、社会変革に興味を持ってくれていたのならば。 この世の中は、どれほど素晴らしいものになっていただろうか。 二九八四年。この素晴らし…

サイエンスの中のフィクション ②

そんな風に、ほかの分野のストーリーをながめていると。リアリストを名乗る冷笑主義者のひとりとしてわたしは、まあ……そうだな、それが彼らの生存戦略なのだな、というふうに思う。 彼らの語る夢はほとんど実現不可能で、そのことは彼ら自身がいちばんよく分…

サイエンスの中のフィクション ①

研究とはときおり、ストーリーをつくる仕事だと言われる。自分が取り組んでいる未知の問題、導き出された未知の結果、そういうものに何らかの有機的な彩りを与えてはじめて、研究は研究として成立するというわけだ。問題に取り組めるからこそ研究の道を志し…

ワナビーを抜けた先では

ひとりのワナビーが健全に成長し、憧れていた世界が実際にどうあるのかを理解したとき、そこにいるのはもはやワナビーではなく、れっきとしたひとりの仕事人だ。ワナビーがワナビーのまま何も身につけずに終わる、というお決まりの軽蔑的パターンは、もはや…

不連続性の減退

疲れと絶望とが降り積もって、わたしたちの鼻や喉は、ゆっくりと吸うべき空気を失ってゆく。毛穴までもが呼吸の術を失い、それでも意識を失うことはあたわず、着実に積み増されてゆく頭上の重みをわたしたちははっきりと感じ続ける。そうした時間が何か月、…

テキトーの言い訳

日記という媒体の魅力のひとつに、内容の要求値が低いことが挙げられる。 定義上、日記とは一日に一本のペースで書くものだ。そうなっていない日記もあるが、あくまで定義上はそうだ。かりに百歩譲って、数日に一度しか更新のないものを日記と呼ぶことを許す…

エモさのパワー

「ヤバい」「エモい」――などといったことばは常用されるようになってもうかなりの年月が経っているし、これらが数々の批判にさらされる様子も、また幾度となく見てきている。批判の内容は年を経ても変わることはなく、それはひとえに、成立する批判がただの…

セルフ・エコーチェンバー ②

エコーチェンバー現象という名前が、最近よく聞かれるようになった。 エコーチェンバーとは元々、音の反響に関わる物理現象に由来するらしい。読んで字のごとく、チェンバー(小部屋)の中に閉じ込められたひとは、自分自身の立てる音の反響を聞くことになる…

セルフ・エコーチェンバー ①

文章とはだれに向けて書くものか、という問いに明確な答えはないが、だれが読んでいるのかにはひとつ、明確な事実がある。それはおよそひとの手によるすべてのものにあてはまる性質で、作者性を帯びたひとはだれしも、決して逃れることのできない自然の摂理…