2021-03-01から1ヶ月間の記事一覧

終わりの記念日

少なくない数の人にとって、本日三月三十一日はなにかの最後の日だ。当の私も、今日で修士課程学生の身分が終わり、明日から博士課程学生になる。 というわけで、今日は私にとって特別な節目の日だ。色々な感情が、節目にはある。これまでを振り返っての感傷…

イデオロギーごっこ

自発的にか現代の教育の影響かは定かではないが、とにかく、私は一切のイデオロギーに対して相対的であろうと考えてきた。何事も信じまいと誓った。一切のイデオロギーに染まるべきでないというイデオロギーに染まり、その是非に頭を悩ませてきた。 イデオロ…

言葉と救済と

人は、自らを代弁してくれる言葉に救われる。 誰しも人は、言葉にしにくい想いをしまい込んでいる。道徳への反感、世の中に逆行する思想。綺麗な人間など存在しない――少なくとも、私はそれを人間と定義しない。 しまい込んだ想いを的確に代弁する言葉に出会…

本分に向き合うこと

思い返せば、これまで、本分には常に反抗の意を示してきた。学生の本分とはすなわち学校の勉強であり、そして受験勉強である。小学六年生の私は、放課後の遊びを意地でもやめなかった。中学では、定期試験を早々と見限った。高校三年生の私は、受験勉強をや…

恍惚への希求

夢の中でのみ、私は、純粋な私でいられる。 夢は曖昧だ。非論理的だ。支離滅裂だ。景観の詳細はぼやけていて、私はそれを気にしない。通常ではありえない場所に、通常ではありえない人がいる。物理法則は簡単に破られる。夢の中の順接は、起きてから思い返せ…

博愛を受け入れること

人のやさしさに、人は時折不安を覚える。 もちろん、しばしばやさしさには裏がある。旅先で過剰なまでに親切な人間に出会ったら、その人は高確率でぼったくりだ。人を騙すために最も重要なのは、自らを相手に信頼させることだからだ。 だが不安の正体は、騙…

冷笑をやめてみること

こうして一週間ほど書いてきたが、文章として成立するテーマは思ったより少ない。原因はおそらく、私の文章の構造だ。非道徳的な前提を、非道徳的なまま発展させる短文。このような短文に可能なのは、現状を冷笑的に語ることだけだ。 私は冷笑主義者だ。冷笑…

ありのままを受け入れること

意志とは、惰性の連鎖を拒否することだ。 かつての私は、自らに意志を要求していた。無為に過ごすことを、自己研鑽のための時間を無駄にすることを、私は罰そうとした。貴重な時間を、ツイッター論客業に費やしたとき。大差のついたプロ野球の中継を、流され…

Re: 意味という茶番

理論研究は、無意味だ。役立たずだ。 それでも一部の研究者は、無意味の中に意味を見出そうとする。結局役には立たないという大元の理屈を無視して、無意味と無意味の間の意味を比べ続ける。私には、この茶番に耐えきれる自信がない。 彼らは、彼らの思う意…

書くことによる変質

書くとは、自らを整理する作業だ。 整った文章には型がある。注意を引く書き出しが必要だし、背景説明を入れるべきは序盤だ。論理の発展と転換を経て、最後にはひとひねり加えた態度を示さなければならない。論理展開の緩急で表現される、一貫したストーリー…

意味という茶番

理論研究は、無意味だ。役立たずだ。 無意味さに反して、理論研究の地位は確保されている。既得権益か、それとも詭弁の賜物か。どちらにせよ、世の中はバグっている。 バグは希望だ。無意味な私たちの聖域だ。私たちに、意味は不要だ。バグが守ってくれてい…

誠実であるということ

「誠実な態度とは、一切の主義を信じないことだ。 世の中は矛盾している。正義と正義はぶつかり合う。民主主義と自由主義。人権と人権。両者に論理的正当性があり、すなわち論理的正当性など無意味だ。 扱えないものは、扱うべきではない。論理が無意味なら…

知らぬ間の別れ

修士課程の卒業式があった。面倒だったので、式には行っていない。 卒業式とは本来、別れのための式典だ。当たり前の生活の終焉。日常を定義していたはずの友が、いない日常という矛盾。穴の開いた日々を無理にでも直視するために、この儀式はある。 だが、…

ルールの続き

日記をつけるにあたって、昨日いくつかのルールを設定した。ルールとは呼んだが、実際のところ私を縛るものではなく、むしろ許容するためのものだ。 ともあれ、咄嗟に設定したルールは穴だらけだ。ということで、今日はルールを追加することにする。準備にの…

日記をはじめます

日記とは三日坊主の代名詞である。 人は、喪わないために日記をつける。今日という日が記憶の彼方に消えたまま戻ってこない恐怖のために、今日という日を記録しておく。今日起こったちょっと面白いこと、今日考えたちょっと興味深いこと。日記とは、吹けば飛…